「ツヨシくんは何がしたいん? ごめんやけど、もう、ウチはついていかれへん」
そうして、彼女は席を立ち、千円札を一枚置いて、店を出た。
俺は一人、店に取り残されてしまった。

音楽の専門学校を中退

エレキギターの白黒写真

俺は大阪で生まれ、堺市で育った。そして、高校を卒業後、大阪市内にある音楽系の専門学校へ進学した。

それは、CDが昔みたいに売れなくなり出した頃。ちょうど、ネット配信に切り替わる転換期。

MISIAや宇多田ヒカルが颯爽とデビューして、R&Bブームが到来。それまでチャートを席捲していたロックを「ダサい」と思う人が増え、影をひそめるようになった頃。そして、hideが亡くなった頃。

専門学校の担任は、入学そうそう「君たちの時代は、音楽では食べていけなくなるから」と、出鼻をくじくようなことを言った。

おおかた発破をかけたつもりなんだろうけど、百万以上出して進学した方は、たまったもんじゃない。

進学先はギター科だったが、絶望的なまでに担当の講師と反りが合わなかった。俺は洋楽・邦楽を問わずHR/HMが好きだったが、その講師は「うるさい音楽」と毛嫌いしていた。ちょろっとリフを弾いただけで、露骨に嫌な顔をする。

結局、1年もしないうちに、俺はその専門学校に行かなくなってしまった。

まあ、その講師がいけすかなかったというのも大きいけど、結局は自分の問題だ。俺は高校では一番ギターがうまいと自負していたが、所詮は「井の中の蛙」だったというわけだ。

祖母と二人暮らし

俺は高校の頃からばあちゃんと二人暮らしだった。専門学校をやめてフラフラしていても、ばあちゃんは何も言わなかった。

俺がどんな学校に通っていたのか、そもそも学校に通っていたのかすら、多分よくわかっていない。

もともと、ばあちゃんはずっと気ままにマンションで一人暮らしをしていた。しかし、年齢とともに、少しずつ認知症の症状が出てきていた。

あるとき、ばあちゃんは用事も金もないのに、タクシーで大阪から名古屋まで行った。そして、何十万円ものタクシー代を請求されるという事件が発生した。

さすがにもう見過ごせないと、ついに家族会議が開かれることに。

ばあちゃんは、気難しい人だった。

これ以上一人にするには気がかりだが、誰と一緒に住んでもすぐに喧嘩別れになってしまう。そこで白羽の矢が立ったのが、俺だ。ばあちゃんは孫の中でも、俺を目に入れてもいたくないほどに溺愛していた。

「おばあちゃんは、孫のあんたの言うことやったら、何でも素直に聞くから」
とオカンや親戚に説得され、俺がばあちゃんと暮らすことになった。

ばあちゃんは危なっかしいところもあるが、まだ自分のことは自分でできたし、ごはんも用意してくれた。そして俺の言うことには一切口を出さないので、実質一人暮らしとそんなに変わらない。気楽なものだった。

専門学校を中退してからは、近所の居酒屋でアルバイトをしていた。もともと接客が好きで、人と話すのは苦ではない。周囲に目を配ったり、相手が何を求めているかを察するのも得意だ。すぐにリーダーとしてホール全体を任されるようになった。社員からの信頼も厚かった。何度も、社員にならないかと店長から誘われたが、俺はかたくなに断っていた。

バイトだから気楽でいいのに、社員なんてごめんだった。

だからといって、ほかにやりたいことも見つからない。まあでも、まだ20歳だし、そのうち何とかなるだろうと、あまり深く考えていなかった。

付き合っていた彼女に、高校時代によく行っていた店に呼び出されるまでは。

突然の別れ

今はどうかわからないが、少なくとも俺の時代は、バンドをやっていればヒーローだった。

そこそこファンもいて、今はなき"難波ロケッツ"でライブをしたこともある。難波ロケッツは、L'Arc~en~Cielを輩出したことで有名な、ビジュアル系の聖地だ。残念ながら、2016年になくなってしまった。

もちろん練習も欠かさなかった。

BASE ON TOP 深井駅前店の写真

南海深井駅前にある"BASE ON TOP"。俺たちはよく「ベーオン行こうぜ」って言っていた。

BASE ON TOP 深井駅前店の階段の写真

ビルの2階にあり、よく重たい機材を抱えて、この階段を往復した。

堺市駅のRED HOUSEの画像

JR堺市駅の近くにある、赤いギターの看板が目印の"RED HOUSE"にもよく通った。奥がスタジオになっている。料金が良心的でありがたかった。今でもブルースなどの音楽イベントを精力的に開催している老舗の店だ。

スタジオの帰りにマクドやガストに行ったり、冬はコンビニでおでんを買って、食べながらみんなでくだらない話をするのが楽しかった。

今もそうかもしれないが、昔の男性ミュージシャンは、インタビューで音楽を始めた理由について「モテたかった」と答える人が多かった。そして俺が音楽を始めた理由も、例にもれず「モテたいから」。そして、実際にそこそこモテた。

気になる子がいたら、その子の好きなアーティストを調べて、その曲のフレーズをちょっと弾いてみせればいい。あと、「ギター教えたろか?」も効果が高かった。ちょろいものだった。

ユキ(仮名)とも、そんな感じで高校3年から付き合いだした。

ユキは高校卒業後、正社員として地元の企業に就職。雇用形態こそ異なるが、働いているのは俺もあいつも一緒。稼ぎはむしろ俺の方が多いし、特に気にもとめていなかった。

しかし、あいつは一緒だとは思っていなかった。そしてそのことに、俺は全く気づいていなかった。

あいつに呼び出されたのは、「バーグザウルス」という店だ。その名の通り、ハンバーグの店。バーグザウルスを知らない人は多いだろうが、「びっくりドンキー」ならわかるだろう。その関西にあるびっくりドンキーの一部の店舗が、一時期だけバーグザウルスに変わったことがあったのだ。俺の若い頃が、ちょうどその時期。通称「バグザ」。確か、恐竜の看板が立てられていた記憶がある。いつのまにか、元のびっくりドンキーに戻っていたが。

そんなバーグザウルスの隅にある4人掛けのテーブルに、ユキはいた。仕事帰りだろう、大きめのCOACHのバッグが、横の椅子に置かれている。高校のときは安室奈美恵を意識した茶髪で、眉も極端に細かったが、今は髪は黒く、眉も普通になっている。

向かい合ってハンバーグプレートを食べながら、当たり障りのない世間話をした。

「これ食ったら、どこいく?」

ユキは、そんな俺の質問には答えずに、
「……ツヨシくんは、いつ仕事をするん?」
と、逆に俺に質問してきた。

「はあ? いきなり何言ってんねんお前。毎日仕事しとるやんけ。今日は休みやけど、明日も仕事やし」

俺の返答を聞いたユキは、「こいつは何もわかっていない」と言わんばかりにため息をつき、首を振った。

「ちゃうよ。いつ正社員で就職するんやってこと。居酒屋でも社員にって誘われてるんやろ? なったらええやんか」

「いや、なんで、お前にそんなん口出されなあかんねん」

俺は苛立った。アルバイトは、仕事のうちに入らないというのだろうか。

「口出すわ! ウチはあんたの彼女やんか……」
そう言って、ユキはうつむいた。

それからあいつは、何人かの正社員で働いているやつの名前を挙げた。
泉北高速鉄道に就職したやつ。
スパワールドに就職したやつ。
みんな、それぞれ頑張っていると。
でも、俺は頑張っていないと。

「高校のときは、バンドやってるツヨシくんを格好いいと思ったし、彼女であることを誇らしく思ってた。ツヨシくんはメジャーデビューするって信じてたし、応援するつもりだった。でも、もう夢ばかり見ていられへんねん。もうウチらは20歳。大人やねん」

ユキは、机をバンと叩く。

「ツヨシくんと一緒におっても、将来が全然見えへん。専門学校やめてから、バンドもやめて、ふらふらしてばっかりやん」

「…………」

「ツヨシくんは何がしたいん? ごめんやけど、もう、ウチはついていかれへん」

そうして、彼女は席を立ち、千円札を一枚置いて、店を出た。

俺は一人、店に取り残されてしまった。

やりきれない気持ちで家に帰り、扉を開けると、焦げ臭いにおいが鼻をついた。あわてて台所に向かうと、片手鍋が真っ黒。あやうく火事になるところだった。

「おい、ばあちゃん! また火ぃつけっぱなしやぞ!」

部屋の電気をつける。テレビはつきっぱなし。浴室、トイレ、全ての部屋のドアをバタンと開ける。

ばあちゃんが、いない。あわてて靴を履き直し、外に出た。

「おーい、ばあちゃん! どこ行ったんや」

阪堺電車の写真

当時住んでいたマンションのすぐそばには、阪堺電車が走っていた。阪堺電車は、大阪で唯一の路面電車。いわゆるチンチン電車だ。当然、高架ではなく、道路を走っている。万一、ひかれでもしたら。俺は真っ青になってばあちゃんを探した。

幸いにも、ばあちゃんは、マンションのそばにある公園のベンチに、ぼんやりと座り込んでいた。俺は、ほっと胸をなでおろした。

今は秋だが、もしこれが冬だったら。もし、今日がバイトの日だったら。もし、ユキと遊びに行ったまま、夜中帰ってこなかったら。

思わず、身震いしそうになる。

「帰るで、ばあちゃん。風邪引くから」

俺は、ばあちゃんの手を引いて、家に戻った。風は少し冷たかったが、ばあちゃんの手は温かかった。何だか、子供の頃に戻ったようだった。あの頃は、ばあちゃんが、俺の手を引いていたけど。

ばあちゃんが、見つかってよかった。

そして、こんな夜に、一人じゃなくて、よかった。

しかし、これからどうしようか。俺一人では、もう限界かもしれない。でも、親戚はアテにならないし。

介護の世界に飛び込む

車椅子の老人を介護している写真

翌朝、俺はたまっていた新聞を、廃品回収に出す準備をしていた。まとめた新聞の束をひもでくくろうとしたとき、1枚のチラシがふと目にとまった。

それは、家のすぐ近所にできた介護施設が、ヘルパーのアルバイトを募集しているというものだった。

正社員登用制度あり!
ホームヘルパー2級の受験費用を負担!
夜勤や入浴介助ができれば、時給大幅UP!

「介護か」

正直、まったく考えたことのない選択肢だった。しかし、案外向いているかもしれない、と思った。

ばあちゃんはよく食べ物をこぼすし、吐くこともある。最近はトイレも失敗するようになった。しかし、俺はその処理も、臭いもまったく苦ではなかった。介護では必須スキルである、「鼻をつままずに、口だけで呼吸をする術」を、知らずしらずのうちに体得していた。「苦ではないのは身内だから」と思われるかもしれないが、世の中には身内のおむつ交換すらできないやつは大勢いる。

それに、吐しゃ物の処理も、居酒屋のアルバイトでは日常茶飯事。

バンドをやる前は野球少年。中学時代は阪神に入るのが夢だったから、体力にも自信がある。

あと、俺が介護の知識を身につけたら、ばあちゃんのサポートも、もっとうまくできるだろう。

「ばあちゃん、俺、介護の仕事してみようかなと思うねんけど」
俺は、テレビを見ていたばあちゃんに話しかけてみた。

「ツヨシは、優しい子からねぇ」
ばあちゃんはそう言ってにっこり笑った。わかっているのかいないのか。俺もつられて苦笑する。

さっそく、その介護施設に電話をかけ、面接を受けた。介護は慢性的な人手不足ということもあり、また男手も少なかったとのことで、あっさり採用された。介護の知識を得た俺は、すぐにばあちゃんに介護認定を受けさせ、ばあちゃんの状態に応じて、訪問ヘルパーなどのサービスを家に入れるようになった。

天職だった介護のアルバイト

老人の手を握っている写真

介護の仕事は、俺が最初に考えていた以上に天職だった。俺は、居酒屋のホールで培った接客スキルを、いかんなく発揮した。若い男性の職員が少なく、また採用してもキツくてすぐ辞めてしまうことも多く、珍しかったというのもあるのだろう。利用者からも「ツヨシくんがいい!」と引っ張りだこだった。

基本はお風呂の介助が多く、レクリエーションにたずさわることは少なかったが、たまにギターで「青い山脈」などの懐メロを奏でると、みんな「懐かしいねぇ」と目を細めて喜んでくれた。

また、忘れられない利用者もいる。

90歳を超えていたそのおばあさんは、認知症がすっかり進行してしまっていて、ほとんど会話が通じなかった。そして、天涯孤独だったようで、身内がほとんど面会に訪れなかった。

そんなおばあさんだったが、ある日突然、一日だけ別人みたいにシャキッとした日があった。いつもは目の焦点が合わず、うつろだったのに、その日は目に輝きがあった。

車椅子に乗せて、しゃがみこんでフットサポートを下ろしていた俺を見て、おばあさんはそのときゆっくりとこう言ったんだ。

「あんたみたいな、若い兄ちゃんが、来てくれてよかった。若い兄ちゃんと、話せてよかった。ありがとう」

その目には、うっすら涙が浮かんでいた。

その2日後、そのおばあさんは、この世を去った。

人は、亡くなる瞬間、ぼっと命の灯火が輝くときがあるのだと、そのときに知った。

そのおばあさんは、最後に少しでも幸せを感じてくれたんだろうか。うちのばあちゃんも、口には出さないけど、そんなことを考えているんだろうか。

ずっと、俺には音楽しかないと思っていた。でも、こんな自分でも、誰かの心の支えになっているんだと、はっきりと気付いた。俺は、介護の世界で生きていこうと、心に決めた。

そして数か月後、学校にも通いヘルパー2級を取得。居酒屋のアルバイトを辞め、晴れて、その施設の準社員になった。

その後、風のうわさで、ユキが同じ会社の人と結婚すると噂で聞いたが、俺は全く気にならなかった。同じ施設で働く彼女が出来たからだ。彼女は優秀なヘルパー。ばあちゃんの面倒もよく見てくれて、ばあちゃんも気に入っていた。

彼女と一緒にヘルパー1級を受験し、合格。さらに5年後には受験資格を得てケアマネジャーを受験、勉強のかいあって一発で合格できた。

そして2019年現在。
俺はケアマネジャーとして多数の案件をかかえるかたわら、堺市内でデイサービスを経営している。競合は多いし、人材の確保にも苦労しているが、まあなんとかうまくやっている。ヘルパーの彼女とはその後別れてしまったが、結婚し子どももいる。

分岐点は、今はもうこの世にはいないばあちゃん、そしてユキだったように思う。

あのできごとがなかったら、介護との出会いがなかったら、俺は今でも音楽への淡い夢を抱いたまま、何もせずフリーターでフラフラしたままだったかもしれない。

あれ以外、ユキには会っていない。しかし、もしまだ堺の街に彼女がいたら、また会うこともあるかもしれない。もし街中でばったり出会い、会話をすることがあるなら、そのときは胸を張って言いたい。

「俺、あれから就職して、勉強して、ケアマネジャーになったんやで」って。

音楽の街、堺

本文に出てきたお店を紹介しよう。

「BASE ON TOP 深井駅前店」
http://www.bassontop.co.jp/studio_fukai/

「RED HOUSE」
https://redhouseosaka.com/

三国ヶ丘Fuzzの画像

KANA-BOONのホームグラウンドとして有名なライブハウス「三国ヶ丘Fuzz」。
http://www.mikunigaoka-fuzz.com/

大泉緑地の大芝生広場の写真

さまざまなイベントが催される、大泉緑地の大芝生広場。面積は4.4ヘクタール。大泉緑地といえば、お隣の松原市はflumpoolの出身地で、彼らも2015年にここで野外ライブをやっている。

ライブバー「ファンダンゴ」の画像

そして、ウルフルズの拠点だったとして有名な十三のライブバー「ファンダンゴ」も、堺に移転してきた。

音楽が好きな人は、ぜひ一度、堺に遊びに来てみてほしい。俺ももう一度、ギターを弾いてみようかな。

※この話は、当事者へのインタビューをもとに構成、執筆しています。

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