「ちくしょう! ちくしょう!」と私は壁を殴りながら泣きわめいていた。

ただただ悔しかった。

もう建設現場には、二度と足を踏み入れるまい。そう心に誓った。

電気工事のバイトを始めてちょうど2年半が経った頃だった。

見学、体験バイト、大歓迎!

作業員

私は電気系の仕事に憧れていた。

小さい頃から、ラジコンカーの組み立てに夢中になったり、高校の先輩を通して知ったアマチュア無線、パソコンなど、電気・電子系のものが好きだった。

工業高校を出てからファストフードやガードマンなどのアルバイトを転々とした後、そろそろ技術系の仕事に就きたいと考えていた。

そんなある日、知り合いの電気工事業を営む親方から、「ウチに来ないか? 見学、体験バイト、大歓迎だよ!」と誘われた。そのときの親方はとても優しかったことを覚えている。

前々から憧れていた電気関係の世界で働けると思った私は、もちろん二つ返事で飛びついた。

想像と全く違う「電気屋」の仕事

作業をしている

電気工事というと、どんな作業を思い浮かべるだろう?

電話や集合インターホンの何十本もある細い線を、テスターを使って確認しながら、一本一本配線・接続していくような作業。会社のオフィスでパソコンを並べてLAN配線しセットアップしていく作業。そういったものを私は思い浮かべていた。

ところが、勤務初日、私は真夏の炎天下でショベルを持って必死に土を掘っていた。またあるときは、ハケを持ってペンキ塗りをしていた。またあるときは、セメントをこねて左官ごてを使って、やったことのないモルタル補修をしていた。電気工事をやるはずの私はそこにはいなかった。

想像していたのと全然違う仕事だった。

実は、私が思い浮かべていたような作業は「弱電屋」と言われる人たちがやっている業種だったのだ。

ひとことで電気工事と言ってもその世界は広く、幹線導入や高圧配線、宅内配線工事、エレベータ工事、弱電専門の人など様々な業種がある。

その中で私が何も知らずに入門したのは、住宅の配線工事を中心に業務を行う、建設現場で「電気屋」と呼ばれている親方だった。

ハンマーを持って作業をしている

この「電気屋」と呼ばれている業種は、本当に何でもする。

たとえば住宅の新築工事であれば、まず建物が立つ前に幹線と呼ばれるごっつい太い線を引く。そのための、モグラが通れるような太い配管を地下に埋める。その配管を埋めるための穴も自分たちで掘る。

パワーショベルがあれば良いが、小さい現場の場合は手掘りする事もよくあった。そして配管が埋まれば、そこに極太の線を、綱引きのように人力で引っ張る。

電柱に登って電源の引き込み、コンクリート内にあらかじめ仕込んでおく線のための配管、場合によっては電気設備のためのコンクリートの打ち込みやモルタル仕上げも付随する。建物があらかた建ってくると、今度は図面を見ながら壁うちや天井裏に配線を仕込む。

改修工事であれば、古い設備の解体もする。大きなハンマーを振り上げ、ブロック塀を壊した。

配管やBOXを塗装したり、左官屋がするようなモルタルの補修や、クロスの補修などもした。コンセントやスイッチの枠を付けるために、ちょっとした木工作業もし、ボードに上手に穴をあけ、器具を取付け、検査、手直し、そしてようやく完成だ。これら全てを、夏は40℃の炎天下、冬は厳しい寒さの中、屋外で行う。

電気の事だけではなく、それこそ建設の何でも屋のような存在だった。

この「電気屋」を極めたら、それこそシンプルな家1軒まるまる自分で建てられるのではないかとさえ思えた。

毎日毎日怒鳴られる日々

黒いライオンが吠えている

電気屋の仕事内容も肉体的にハードだったが、私が入門した親方のやり方がそれにも増してハードだった。

もともと建設の世界というのは、丁稚奉公・徒弟制度から始まっている。厳しいのが当然なのだろう。仕事は盗んで覚えろとよく言われた。丁寧な研修などは皆無だった。

親方の作業を見て、あるいは他の職人の仕上げを昼休みや終業後に見に行って、どうやっているのかを見て盗まなければいけない。全くやったこともないことを手探りで習得するのは、ほとんど不可能に近いことだった。もちろん何度も失敗してしまう。

最初の2週間くらいは親方は優しかったが、それを過ぎると、日増しに怒鳴られることが増えていった。

親方は仕事に対しとても実直、一切の妥協も許されない。まさに昭和のプロフェッショナルな職人だった。だから、必然的に怒ることが多くなる。

いつもは温厚で優しい親方が一瞬にして豹変する。瞬間湯沸かし器のように沸騰するのだ。その鬼のような形相は心底恐ろしかった。

仕事をしないかという誘いを受けた時は、まさかこんな風に毎日毎日怒鳴られるとは思ってもみなかった。

形に残る仕事

高層ビル

そんなハードボイルドな職場で日々を過ごして、驚くような結果も出た。

私はもともと運動神経が悪く、子供のころからひ弱で体力に自信がなかった。虚弱体質が自分のコンプレックスだった。

ところが現場での作業、力いっぱい綱引きをする入線作業、VAと呼ばれる1巻15キロほどもある電線を4巻肩に担いで階段を上り下りといった、まるで軍隊のブートキャンプのような日々を半年も繰り返すうちに、自分の体に起きた異変に気付いた。

まず体重が5キロも増えた。

でも鏡を見ても太ったようには見えなかった。むしろお腹はへこみ、全身が引き締まっている。体全体が筋肉質になっていた。

25キロもあるセメントの袋を軽々と担ぎ、左官屋さんから「お!力あるな!」と感心された。高層マンションの建設現場では、仮設エレベータが使えない日は27階まで重たい道具を持って登った。おかげでたまに遊びに行く山登りも楽勝だった。

当時の私は、人生の中で一番体力があったと思う。腕相撲でも誰にも負ける気がしなかった。虚弱体質は過去のものとなり、日増しに自分の身体が鍛え上げられていく日々が、たまらなく快感だった。それがこの辛い仕事を続けていたモチベーションのひとつでもある。

そしてもう一つ、この仕事をしていてよかったと感じられるのが、完成した建物がずっと残る事だ。

電気工事と言えど、建築の一部である。目に見えない配線や配管だけでなく、目に見える照明器具、また自分で塗装した部分や左官した部分などがずっと残るのだ。

だから、中途半端なものは作れない。中途半端だとそれが作品としてずっと残り、恥をかく。親方はその厳しさを徹底して私たち弟子に叩き込んだ。

マンションの建設など、数か月~1年掛かりのプロジェクトが完成した暁には、大きな達成感を味わえた。月日が流れた今でも自分が関わったマンションを見上げると、感慨深い気分になった。

親方からのアメとムチ

りんごが並んでいる

体験入社の最初の2週間が過ぎた頃だった。

一緒に働いていた私より何倍も仕事のできる先輩が、親方からボロカスに怒鳴られているのを目の当たりにした。

まだ失敗続きの私が怒鳴られるのは無理もないことだ。しかし、何年も働いていて多くの現場をこなしている先輩ですら、まるで入って数日のアルバイトのように、こてんぱんに叱られているのだ。

もうこの仕事をやめようと思った。このままでは私も先輩と同じ立場になるのは目に見えている。その前に抜けようと思った。

ところが退職の相談をすると親方に、

「まだ2週間だろう!? この仕事の何が分かるんだ? とにかくもう少しやってみてくれ! 頼む!」

と懇願された。

入るときに、現場の途中で辞められるのは困る、という条件でもあったため、最初の現場とその次の現場は怒鳴られながらも歯を食いしばって耐え抜いた。しかし、毎日毎日丁稚奉公のような昭和の厳しさで親方に怒鳴られるのは精神的にもつらかった。これ以上は心が持たないと思った。

プロジェクトの切れ目切れ目で親方に退職したいと言った。

しかしその度ごとに、

「石の上にも3年と言うだろう、君はまだまだだ。君は出来る、とてもよく動いてくれて助かっている。いつも怒鳴ってすまない、君の能力にあった要求をするように気を付けるから、もう少し頑張ってくれないか?」

と、なだめられた。そんな時にはいつもの温厚な親方なのだ。

辞めるに辞められず、とうとう本採用されることになった。そうしてずるずると次の現場でも続けてしまうのだった。

ポキンと心が折れた音がした

爆発の煙

そんな状態のまま、とうとう2年と半年が経とうとしていた。

2年半の間、毎日毎日怒鳴られ続けていた私はもはやノイローゼになっていた。高層マンションの建設現場で、仕事中に何度も飛び降りたい衝動に駆られた。夜になったらロープを持って山の中へ行き、首を吊れる場所を探してひたすら歩き回っていた。

そんなある日のことだった。

作業は仕上げに近い段階に入っていた。

細かい作業だった。しかも納期がギリギリに迫っている。失敗すれば見栄えが悪くなるため、親方はいつも以上に神経質になっていた。親方は私に細心の注意を払って作業するように言った。

私は試しにまずひとつ作ってみて、仕上がりを親方に確認してもらおうと思った。OKが出ればその基準で同じことを繰り返せば良いし、ダメであればダメなものを作って貴重な時間をロスせずに済む。

「親方、すみません、ひとつ出来たんですが、仕上がりを確認してもらえますか?」

そう言った瞬間、親方が振り向いて言った。

「お前……!」

親方は鬼のような形相だった。

親方が厳しいのは今日に限った事ではないのだが、それでもいつも親方は私を名前で呼んでくれていた。

初めての「お前」呼ばわりだった。

「お前、この忙しい時に……」

「人を呼びつけて、なに、『確認してください』だ! えぇ! エラそうに! そんな判断自分でせぇっ!」

「こんなことでいちいち人を呼ぶな! おのれの仕事やろ! おのれの判断でやれや!」

これまでにない強烈な怒りをめいっぱいぶちまけながら、親方はそう言い放った。

強烈なむなしさ

暗い背景と口元

今まで親方に怒られるときは、私が何か失敗をしてしまったり、物覚えが悪かったり、あるいはいつもより厳しい基準でダメ出しを食らったり、といったパターンだった。こちらに非があって怒られるなら、まだ自分のためを思って叱ってくれていると我慢できた。

しかし今回は違った。

自分で判断してやった作業で、これまで何度も叱られてきた。

「分からなければ勝手にするな、聞いてからやれ」と何度も私に言ったのは、親方だった。

だから慎重を期すために仕上がりの確認を求めたのに、それを自分の判断でやれと罵倒で返された。恐ろしい鬼のような形相で「お前」呼ばわりされた。

どう考えても理不尽だった。

これでは何をしても怒鳴られる。もはやこれ以上作業は出来ないと思った。私は単なる親方のストレス発散のためのサンドバッグなのか。

私にとってはもはや限界だった。

人としてのプライドが、踏みにじられた思いがした。憎いというよりも、ただただ悔しくて、拳を強く握りしめていた。

親方が作業に戻ってから、悔しくて悔しくて、誰もいない建設現場の隅で、「ちくしょう!ちくしょう!」と泣きながら、壁を力いっぱい殴った。こみあげてくるのは猛烈なむなしさ、脱力感、無力感だった。

ひとしきり泣いた後、私の心は折れてしまった。もう元には戻りそうにないと思った。

しばらくしてぼんやりと作業に戻り、あたまを空っぽにしてロボットのように昼まで働いた。

すると昼時に親方が私と先輩をいつものように、

「お~い、昼にしよか~」

とさわやかに呼びに来たのだ。

鬼のようだった親方はまるで何事もなかったように、いや、さっきの件でストレス発散出来たのか、むしろすがすがしく振る舞っているではないか!

私は愕然とした。親方にとってさっきの出来事は、全く大したことのない日常の出来事なのだ。私にとって生きるか死ぬかに値するようなことが、親方にとっては何でもないことなのだ。

私は強烈なむなしさに包まれた。

私がここにいる限り、このような事は何度でも繰り返される。間違いなく。そう確信した。

現場からの逃走

EXITの看板

昼休みに私は、腰道具を下ろし、決意とともに、近くのコンビニへ向かった。

コンビニATMで、持っていたカードの限度額いっぱいのお金をおろし、ATM備え付けの封筒に入れた。そして自分の気持ちをしたためた短い手紙を添えた。

「現場の途中でやめてはいけない、という条件でしたね。でももう本当に限界です。今月分の給料は要りません。そしてこのお金で、自分の代わりの応援要員を呼ぶ足しにして下さい」

そんな内容を書いた。

現場に戻り、その封筒を親方に渡して欲しいと先輩に頼み、私はとうとう現場から逃げ出した。

今思うと、山へ行って首を吊ろうとしたり、高層ビルから飛び降りようとしていたが、当時は死にたいと思っていた訳ではなかった。楽になりたかっただけなのだ。目の前の仕事の辛さから、いや、親方に理不尽に怒鳴られる辛さから、ただ逃れたい一心だったのだ。

親方が家に来るに違いないと思い、3日間、他府県の友達の所へ逃げ込んだ。後日、家に帰ったら、やっぱり親方がやってきた。

親方は現場に置き去りにした腰道具と封筒に入れたお金、そして給料を持ってきてくれた。

親方は頭を下げ、

「あの時は怒鳴って悪かった。でももう一度、現場に戻ってくれないか?」

私はもう絶対に戻るつもりはなかった。

「申し訳ないですが、二度と現場には足を踏み入れたくないです」

親方は少し考え込んでから、

「分かった。でも本来、こんな事はとおらんのやで!」

と言い残し、引き上げて行った。

あの時のことを思い出して

メモをしている男性

辞めて20年近く経った今でも、あの時の親方を夢に見てうなされることがある。それほど強く印象に刻まれたこの電気工事の仕事と昭和な親方ではあったが、そこから学んだ多くの事は今でも私の中にある。

「仕事は“正しく・早く・美しく”」

親方の口癖の一つである。

作業はまず正確に、そして早く、さらに見栄え良く仕上げよ、というこの格言は、その後転職し何の仕事をするにしても基本となった。

「仕事は盗んで覚えろ」

今は丁寧な研修があり、盗めというのは時代錯誤に思えるが、それでも教えてもらえるのを待っていては進歩が遅い。先輩の仕事を見て盗めば最初の物覚えも早く、また仕事に慣れてからも常に向上心を持って人より上手に出来るようになる。

「自分の事だけ考えるな、他の職人さんがやりやすいように仕事しろ」

色んな業者が入り乱れる建設現場では、自分の仕事だけに目が行ってしまいがちだ。そうではなく同じ建物を建てているという目的意識を持ち、周囲の業者さんを尊重せよ。そうすることで向こうもこちらの仕事を尊重してくれ、スムーズに仕事が進む。これもどんな仕事でもチームワークなので、応用できる大切な原則だ。

「ど根性!」

親方の仕事に対する尋常ではない厳しさは、よく言えば自分に根性をつけてくれた。その後転職したどの仕事も、この電気工事見習いと比べると楽勝であった。

気性の荒い親方ではあったがこの人の職人魂は今でも尊敬している。

親方には仕事に対するまじめさ、ストイックさ、強靭な体力、精神力があった。私は付いていけなかったが、このような昭和の職人魂を持った熱い仕事人は、今ではほとんどいないだろう。

仕事をしていると、いいことも悪いこともある。親方のやり方は決して褒められるものではなかったが、私にとってその経験全てが無駄だったわけではない。学んだことはしっかり活かし、つらかったことはそうならないように反面教師にしようと思った。

これからの時代は、また違った形でこの職人魂が活きる世の中になればと思う。

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