バタバタする中、バーカウンターに来るたびに岡本さんは「早く早く早く早く!」と小声で呟いた。

岡本さんの言葉と溜まっていくオーダー表に、どんどん自分が追い詰められていくのを感じた。

呼吸が荒くなり、手は震え、鼓動が早まり、周りが見えなくなってきた。だめだ、笑顔を作らなきゃと思った。

「え、ドリンク全然まわってないけど」

その言葉にさっと血の気が引いていくのを感じた。

私はオーダーが山積みになっているバーカウンターの中に立っていた。

精いっぱいやっている。決してサボっているわけではない。でも何もできていない。

その日、私は救急車で運ばれて入院した。

バーテンダーになりたい

ウイスキーとテイスティンググラス

洋酒の瓶が並んだバーで、カランと氷を鳴らしながらグラスを揺らす。若い頃の私は、バーが似合うそんな女性になることを夢見ていた。

だが、初めてのお酒で顔が赤くなっている自分の姿を鏡で見ると、そんな憧れていたカッコイイ女性像からはかけ離れてしまっていた。

私はお酒が弱かった。

「飲めないならじゃあ作り手にまわろう!」

それで一気に作り手へと方向転換した。琥珀色のウイスキーや色鮮やかなカクテル、シェーカーを振る音。そういったバーやお酒の世界に対する憧れを諦めきれなかった。

最初に働いていたプールバーは、形としてはガールズバーに近かった。接客するスタッフは全て女の子で、本格的にお酒を楽しむというよりも、ビリヤードやダーツで遊びながら、女の子との会話を楽しむ場所だった。その店は「ちょっとバー」と呼ばれていた。ショットバーのように本格的ではない、スナックの要素が混ざった「ちょっとしたバー」の意味だ。

しばらくしてもっと本格的なバーで勉強したいと思った私はダイニングバーで働くことにした。とんとん拍子で繁華街のお店の採用が決まった。

バーテンダーの山本さんはすでに退職が決まっており、その後釜が必要だったため、すんなり私の採用が決まったようだった。もちろん、バーテンダー経験を買われてのことだ。広めのダイニングバーだった。

ダイニングバーの繁盛店

赤いカクテル

先輩バーテンダーである山本さんと一緒に仕事をするのは楽しかった。頼りがいのある先輩について仕事を覚え、以前とは違う本格的なバーテンダーとしての仕事に日々わくわくしていた。

ダイニングバーのレシピはプールバーのものと微妙に異なっていた。私はカクテルを作るごとに間違っていないかレシピを確かめる必要があった。

おすすめ商品は店のオリジナルカクテルだ。赤や青で彩ったグラニュー糖でグラスを縁取り、砂糖が落ちないように気を付けて氷を入れてお酒を注ぎ、皮に加工を施したオレンジを飾るとてもおしゃれなカクテルだった。メニューの目立つところに掲載されているから、注文数も多い。ただこのオリジナルカクテルはものすごく手間がかかった。

新しく仕事を覚えることに加え、ダイニングバーのカクテルレシピの覚え直し、オリジナルカクテルの提供スピードアップ、やることは山積みだった。さらに山本先輩の退職日が迫っている。

本当に、私はひとりでバーカウンターを回せるのだろうか。ピークタイムをひとりで乗り切れるのだろうか。だんだんと不安になってきた。

そうこうしているうちに、ホールスタッフよりもバースタッフとしてのシフトが増えてきた。山本先輩がラストオーダーより前に帰ることも多くなってきた。

「よし! じゃあ帰るわ。クリナちゃん、後よろしくねー。お先に失礼しまーす!」

山本先輩を、バーカウンターの中から見送る。

これまでふたりだったバーカウンターだ。カウンターの内側にいるのが自分ひとりだと思うと、店内がいつもの倍以上の広さに見えて心細かった。

バーカウンターの中の孤独

ラムやジンが並んでいる

ついに、初めてひとりでバーカウンターをまわす日がやってきた。

私は焦っていた。

「え、ドリンク追いついてなくない?」

オーダー表がたまるバーカウンターの端。ホール担当の岡本さんのつぶやきが聞こえた。

確かに、どんどん増えるオーダー表に、すでに私はいっぱいいっぱいだった。

急がなきゃと思えば思うほどに、カクテルのレシピに自信がなくなる。覚えているはずのレシピを何度も確かめて、必死でドリンクを作った。

「ジントニックと生、オリジナルAお願いしまーす」
「赤ワイン、ボトル入りました」
「バラライカとテキーラサンライズです」

時間のかかるオリジナルカクテル、うろ覚えのレシピ、ワインクーラーとトーション、ソムリエナイフの用意。

やることがどんどん積み上がって気持ちだけが焦る。なのに、焦りに手の動きが付いていかない。

早く早く早く……、呪文のようにその言葉だけが頭を回っている。

山本先輩が一緒の日は、私がいっぱいいっぱいになっていたらさりげなく助けてもらえた。

「クリナちゃんもだいぶ覚えてきてるから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「大丈夫大丈夫!飯があるから。飲むモンはそんな焦らなくてオッケー」

キッチンにいる遠藤シェフの言葉にも救われた。

だが、当然ながら本当に忙しいときはそんな風に話す暇はない。忙しすぎてバーカウンターとキッチンで顔を合わせる時間もない。

常に背中に火がついているような、生きた心地のしない状態だった。

それが何日も続いた。

だんだんとひとりでバーカウンターに入る日が怖くなってきた。出勤の前の夜は憂鬱で憂鬱で体が思うように動かなかった。できない自分が申し訳なく、不甲斐なさでいっぱいだった。

バーカウンターの中で私はとにかく孤独だった。

嫌味な岡本さん

ジャックオーランタンの明かり

キリッとした笑顔のホールの岡本さんは、男前ということもあってスタッフ人気も高かった。

いつもにこやかで優しい印象だが、私は岡本さんが苦手だった。うまく仕事ができていないという負い目があるからかもしれないが、どこか嫌味っぽい言い方が心に刺さった。

「オーダーたまってるね」
「あれ、7卓のドリンクまだかな」

できていないことは自分が一番分かっていた。注文をさばくのが遅いのは事実だった。しかし改めてそのことを指摘されることで、さらに私は自信がなくなっていった。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

最初は、ただ単純に岡本さんが今の状況を口に出しただけなのだろうなと思った。

たが、ある日気付いた。岡本さんは私に聞こえるように言っている。

岡本さんは、バーカウンターの端でオーダー表を見ていても、私が近付くまでは何も喋らない。私が近付いてから、独り言のように現状をつぶやく。ほかのホールスタッフや山本先輩、遠藤シェフが近くにいないときは、独り言に溜息や舌打ちを混ぜる。

嫌味を言われていると気づいてしまったら、急に岡本さんが怖くなった。岡本さんの行動や発言にビクビクするようになってしまった。

私の心はどんどん削られていった。

バーテンダーとしてカウンターで独り立ちすることとなっていたため、私は一人でカウンターを回すことが多くなっていった。遠藤シェフはキッチンから変わらず心配してくれていたが、仕事の遅い私は常にバタバタしていてシェフと話す機会もさらに減っていた。

岡本さんの嫌味はどんどん鋭くなってきていた。

「あぁ、お客さんに謝らないと。遅いと大変だな」
「今日は空いてるのに、ここだけ大渋滞だな」

私は、日に日にアルバイトに行くのが苦痛になっていった。

心が折れた日

手の中のタイマー

その日は、特に忙しかった。岡本さんの嫌味がいつも以上に私の心を刺すように感じた。

バタバタする中、バーカウンターに来るたびに岡本さんは「早く早く早く早く!」と小声で呟いた。

岡本さんの言葉と溜まっていくオーダー表に、どんどん自分が追い詰められていくのを感じた。呼吸が荒くなり、手は震え、鼓動が早まり、周りが見えなくなってきた。だめだ、笑顔を作らなきゃと思った。

バーテンダーは店内で1番目立つ。

ライトを絞り薄暗く、テーブルランプでいい感じの雰囲気を作っている店内。バーカウンターの輪郭や後ろの酒瓶を照らすためライト。そんなライトの明かりを浴びて、ひとりで店内全体と向き合う位置で仕事をする。それがバーテンダーだ。言ってしまえば、自分ひとりで舞台に立っているようなものだ。

見られた時に泣きそうな顔や不機嫌そうな顔を見せるわけにはいかない。

そのときガシャンというグラスが割れる大きな音と「申し訳ございません!」と謝るスタッフの声が聞こえた。

目の前でオリジナルカクテルが入ったグラスが倒れて割れていた。どうやら、ホールスタッフの一人がトレーに載せ損なってグラスを落としてしまったようだった。

作るのに手間がかかるオリジナルドリンクをふたつ、急いで作り直さなければならない。その前に、カウンターを拭いて割れたガラスを片付けないと。

「ごめん!クリナちゃんごめんね!」

必死に謝ってくれるスタッフになんとか「大丈夫」と返事をした。

焦りながらもとりあえず片付けた。その間にも、オーダーはどんどんたまっていく。だんだんとお腹が痛くなってきた。

キリキリ痛むお腹を一撫ですると、「え、ドリンク全然まわってないけど」という岡本さんの言葉が矢のように突き刺さった。

さっと血の気が引いていくのを感じた。

山本先輩がいないとき、ドリンクを作るのは私ひとりだ。とにかく、オーダーがなくならないと私は休めない。どれだけオーダーがたまっても、どれだけ私が遅くても、助けてくれる人は誰もいない。一息つくことも、お腹を撫でることも許されない。

ひとつずつドリンクを作った。目の前に溜まったオーダーをこなすことだけを考えた。その時に何を考えていたか、感じたかはもう思い出せない。

もう辞めよう

聴診器

ダイニングバーでは、仕事終わりにまかないが出た。

食が進まず暗い顔をしている私に遠藤シェフが話し掛けてきた。心配してくれたのだろう。

「おれの飯が食えんのか。生意気な」と冗談っぽく言う。

「ご飯はいつも美味しいですよ。ただ今日なんかちょっとお腹が痛くて……」もうそんな冗談をうまく返す気力もなかった。

「ずっと腹痛かったんか。痛み止めくらいはあるぞ」

明け方、ますますひどくなる腹痛に加え、強烈な吐き気に襲われた。水を飲んでも戻してしまう。まかないもそんなに食べられなかったのに、胃液なのかなんなのかよく分からないものをずっと吐き戻していた。

助けを求めて駆けつけてくれた彼氏が救急車を呼び、私はすぐに入院することが決まった。

腸閉塞だった。医者の説明によると、腸炎が進んで腸閉塞を引き起こしたらしい。腸炎となる原因はいろいろあるが、ウィルスの可能性は低いから多分ストレスだろうと言われた。

ストレスの心当たりはあり過ぎた。

幸いにも、腸が癒着していなかったため手術の必要はなかった。絶食で様子を見るということでしばらく入院することになった。

ベッドに寝転がり天井を見上げながら、もうこのアルバイトは辞めようと思った。無理だと思った。体も心も悲鳴を上げていた。

点滴スタンドを転がして公衆電話からダイニングバーに電話をした。

事情を話し、いつ退院できるか現時点で分からないためアルバイトは辞めます、と小さな声で伝えた。

申し訳ない気持ちでいっぱいだった。悔しい、情けないという気持ちもあった。でも、半ば無意識的に病状を大袈裟に盛ってたから、本心ではどうしても辞めたかったのだと思う。

やられたらやり返す

夕日でパンチをする女性

退院した後、けじめをつけなければと思ってダイニングバーに菓子折りを持ってあいさつに行った。

とっくに辞めているはずだった山本先輩がバーカウンターの中から笑いかけてくれた。私の腹痛を知っていた遠藤シェフには、そんなにひどかったんだな、気付いてやれなくてごめんと申し訳なさそうに言われた。

制服を返したり挨拶をしたりしていると、岡本さんが近付いてきた。

「なんか、ストレスが原因らしいです。しばらくゆっくり休もうと思って。迷惑かけてすみません」

ストレスが原因とはっきり言われたわけではなかったが、岡本さんに対する嫌味のつもりであえてそう言った。だが、岡本さんとは目を合わせられなかった。

書類を取りに行くために店長がバックヤードに引っ込んだ。その瞬間、私は岡本さんとふたりきりになった。

「おれのせい……?」

岡本さんがそう小さく呟いた。

やっぱりわざと聞こえるように嫌味を言っていたのだ。

自分のできなさが不甲斐なくて、岡本さんの単なる感想を悪くとらえてしまっているのかもしれない、自分の負い目を岡本さんのせいにして逃げようとしてたのかもしれない、と私はずっと悩んでいた。

けど、そうじゃなかった。そこには間違いなく岡本さんの悪意があった。自分が悪く見えないように計算して、意識的に、悪意を持って、私の心をえぐっていたのだ。この男前は。

そう理解した瞬間、なんだか妙に頭がすっきりしたような気がした。

だから、最後は岡本さんと目を合わせて「そうですね」って笑ってみせた。

私も嫌味を言った。

最後なんだから、悪意には悪意で返してもいいだろう。しばらく引きずればいい。

そうして、私のダイニングバーでのアルバイトは終わった。

私は間違っていなかった

のどかな散歩道の日の出

退院後、こぢんまりとしたオーセンティックバーで新しくバーテンダーのアルバイトを始めた。久々にカウンターの中に入ったときに、やっぱり私はこの場所が好きだなと実感した。そのバーでは、渋いマスターがメインでお酒を作る。私はそのサポートだ。

「クリナちゃんがいてくれるとすごく仕事がやりやすい」

ある日、店長にそう言われた。

「僕がグラスを用意するタイミングでアイスが用意されて、お酒を注ぎ終わったら割りものとトッピング用のフルーツが横に並んでる。言わなくても次が用意されてるから、すごく助かるよ」

マスターにとって次に何が必要か、お客さんのグラスや灰皿はどうか、そういった周りの状況を常に意識することは、プールバーで学んだことだ。

私にとっては、あのダイニングバーは広すぎた。カウンターの中から様子をうかがうのは、私には2卓くらいが精いっぱいだ。ダイニングバーでバーカウンターの中にいるときは、お客さんの様子が分からない。オーダー表に目を通すだけでは、機械的に注文通りのカクテルを作ることしかできない。

酔いが回っているようなら少しお酒を薄めにしたり、来店した時間によってはフードを勧めたり、次に必要なものをベストなタイミングで提供する。お酒の場で、私がやりがいを感じていたのはそういった部分だ。私が求める仕事のやりがいは、あのダイニングバーにはなかった。

今考えると、あのタイミングで辞めてよかったのかもしれない。

その人の仕事を見る。周りを見る。それに合わせて仕事を調整する。

バーテンダーのアルバイトをやることによって覚えたその仕事のやり方は、その後会社員になってからも評価された。自分の仕事が次にどういった形で利用されるのかを常に意識することを心掛けていると、自然と「気が利く」「親切」と言われるようになった。オフィスの場でもお酒の場でも、必要とされることの本質はきっと変わらないのだろう。

私は今、数年間の会社員時代を経てフリーのライターとして仕事をしているが、今もバーテンダーをやっていたとき学んだことを忘れずにいる。空気ではなく、人の動きと周りの流れを読んで仕事をする。それが、バーテンダーのアルバイトで学んだ、これからもずっと変わらない私の仕事のルールだ。

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