自分の中の矛盾に日毎に追い詰められながら、穴蔵のような夜のステージ、暗がりの中で一筋の光だけを頼りに生きる自分に酔っていた。

あの頃は、あそこで歌うことこそが歌手だと信じていた。

「ごちそうさまでした」

私は、食べ終わった丼鉢をカウンターに戻しながらつぶやくと、鞄を肩にかけなおし食事処を出た。さあ、今からアルバイトだ。

シャンソンクラブと横柄な客

昼間は普通のサラリーマン、夜はクラブ歌手。その頃の私は、夕方になると違う人間になる二重生活を送っていた。私は、総務企画に携わるバリバリのキャリアウーマンでありながら、同時に歌手でもあった。

歌手と聞くと、テレビの画面でライトを全身に浴びながら歌うような、ヒットチャートに入る人たちを想像するかもしれない。私はそういった歌手ではなく、シャンソンというジャンルを歌うクラブ歌手だった。歌う場所は夜の酒場だ。

当時、歌手としての出演料は1回5,000円~8,000円だった。週に二回出演したとしても、それだけで食べていけるものではない。私のような下っば歌手はクラブの専属となり、出演が無い日はアルバイトとして給仕や店の切り盛りの手伝いをする。専属歌手は、足りない給料を補填するために、他の日にお店のアルバイトに入るのが普通だった。

ピアノやギターが置いてあるレストランのステージ

私はサラリーマンとしてそれなりの給料をもらっていたので、アルバイトは本来は不要だった。でも、シャンソンのクラブにいれば先輩達の生の歌を聞くことができる。アルバイトをしながらではあるが、大好きなシャンソンの空気の中にいられる。それが一番嬉しかった。私はそこで昼仕事の疲れを忘れることができた。

出演者やお客さんの多くは、私が歌手であることを知っていたので、無理な対応を強いられることはなかった。とても穏やかに仕事をすることができた。帰り際に封筒に入れて渡されるその日の給与3,000円は、そのまま帰りのタクシー代となった。若さゆえの贅沢なアルバイトだった。

店のオーナーは客に媚びない姿勢を貫く人だった。店は対価分のサービスを提供し、客はサービスを享受した対価を支払う。それ以外の部分は人間同士として50:50である、と言っていた。これは、ある意味正しい。しかし、そうもいかないのが社会というものだ。

「ここさあ、メニューの種類、少ないな。なんか食べるもの出してよ」

このところ時々顔を見せる客が横柄な態度でそう言った。話しでは製薬会社の経営者なのだとか。娘かと思うような年の女性の腰を抱きながら私にそう言った。

厨房のオーナーに客の言葉を伝える。

「ピザか、チーズなら」

口重のオーナーがぼそっと言った。

「ピザか、チーズでしたらご用意できますが」

先ほどの客に伝えた。

「もっとちゃんとしたもん。どっかから出前でも取れよ」

私は、少々お待ちください、と言ってオーナーの元に下がった。

「出前をご希望です」

オーナーは、自分の体分の隙間しかないような厨房で簡易椅子に腰かけて煙草をふかしていた。

「断って」

私は、また先ほどの客の前に行く。

バーのチーズ盛り合わせ

「申し訳ございません。出前は対応していません」

連れの女がしなだれかかりながら、ちらっと私をみる。

「じゃ、買ってこいよ」

もう一度オーナーに尋ねたところで同じ返事しか返ってこないことは目にみえていた。

「申し訳ありま……」
「帰るぞ」

私が言い終わらぬうちに彼は立ち上がった。どういう態度をとるのが正解かがわからず私はためらっていた。そうすると、いつの間にかレジに回り込んだオーナーは金額を受け取るとそっけなく、ありがとうございましたと言った。

何事もなかったように、次のステージが始まった。狭い店内には身の置き所がなく、私は定位置である玄関扉の脇にたって音楽を聞いた。気が沈んでいた。私はどうするべきだったのだろうか。

振り向かない男性に追いすがるという内容の曲が流れていたが、私の中では違う種類の気持ちが渦巻いていた。

憧れのシャンソン歌手

花火を手に持っている

その日、私は張り切っていた。アルバイトのために昼間の仕事は有休をとった。ずっと憧れていた歌手が東京から来て歌うという。そんな日にアルバイトに入れてもらえるとは、なんてラッキーなのかと思った。

一人暮らしの部屋で、シャワーを浴びて丁寧に化粧をした。自分の出演日でもないのにその日はアイラインもマスカラもほどこした。本当はお気に入りのワンピースが着たかったが、流石にアルバイトにはそぐわない。シャツとパンツを身に着けて店に向かった。店は私がここに来てから最もにぎわっていた。

昭和のころは賑やかだったという、シャンソンが聞けるミュージッククラブ。社用で使う人、ちょっとした有名人、水商売の仕事前の人、フランス文化を愛する人、来店客は様々だったらしい。しかし、私が勤務していたころにはその華やかさはもうすでになく、毎日数人の客が来店するだけだった。悪いときは「ぼうず」の日もあった。客がゼロということだ。

店は出演者が呼んできてくれるお客さんだけを頼りにしていた。いつも出演者の取り巻きが数人いるだけだ。呼ぶ人のない出演者は身内を無理に座らせていることも珍しくなかった。

スタンドマイク

しかし、その日は違っていた。20人入れば満席感のある店内に、ぎっしりと客がいた。私はすみませんと何度も言いながら、客と客の間を何とか進んで飲み物を運んだ。いつもの何倍も忙しく、オーダーを通すのさえ大変だった。しかし、人が入らず店の先行きを心配しながらぼんやりしている日に比べたら何倍も充実した時間だった。

そうこうしているうちに店内の照明が落ちる。同時におしゃべりは消え、ピアノの音が店内に広がった。今日のピアニストの演奏はいつにも増してはりきっていた。聞きなれたシャンソンのポピュラー曲が始まると、そこから先は別世界になる。ステージが始まるのだ。大きな拍手とともに期待の歌手がステージにのぼった。彼は80代という歳にも関わらず朗々と歌い、場内にしみわたるように曲が進行していった。私は働いていることも忘れてその歌声に体を預けた。

休憩時間に私は憧れの歌手に水を運んで行った。私のような下っ端の歌手が出演しているときは、ステージの合間に客席をまわって客あしらいをするのが常だが、彼はステージ脇の椅子に座り静かに壁を眺めていた。

「あの、○○という曲を歌っていただけませんか」

私はなんと厚かましかったのだろう。客ではなくアルバイトなのに大御所に直接リクエストをしたのだ。でも彼は優しかった。

「楽譜、あるかな」と椅子の下の鞄を探る。

「ありました。歌いましょう」

二部のステージ。中盤でその歌が歌われた。ある芸人の一生が描かれた歌だ。歌の中で芸人は、一生の全てを芸に捧げ、芸のために命を失う。そんな風に生きられたらどんなに良いだろう。私はそんなことを考えていた。

ステージが終わり客を送り出すと、薄暗い店内に寒々とした空気が流れた。本来ならここで私の仕事は終わって帰るのだが、今日はわざとぐずぐずしていた。

夜の散歩道

「先生を送ってさしあげて」

オーナーが何かを見透かしたように私に言った。憧れの歌手は駅近くのホテルに泊まるという。支度を済ませた彼を先導して店を出た。

「あなたも歌い手?」

私は大きく頷いた。

「そうか。それなら、とにかく芸を磨きなさい。見た目の美しさなんて、気にしてる場合じゃないよ」

私はその時なんと返事したのだろうか。

「コレで食べていきたいんでしょ。一生、歌いたいんでしょ。だったら、芸を磨いて仕事に食らいつかなきゃ。仕事は力を緩めたら手から離れていくよ。しっかりつかみなさい」

話しながら歩き、気が付けば駅の前に来ていた。憧れの歌手の今夜の宿は、もう少し先だ。

「おやすみなさい。今日はありがとう」

憧れの歌手が背を向けた。私は慌てて追う。

「オーナーからお送りするよう申しつかっておりますので、ホテルまでお供します」

彼は笑った。

「あなたが女性で、僕は男。男が女性を送るもんですよ。いくら僕がじいさんだからって反対はおかしい」

そう告げると、80代とは思えぬしっかりとした足取りでホテルの方に消えた。夢のような一日だった。

歌手というプライド

黒い帽子をかぶった女性

集客ができてなんぼというのが人気商売である。それは音楽業界とて同じだ。どんな名演奏でも客がつかなければ仕事は来ない。多少、芸に難があっても客を持っていれば仕事はなくならない。

シャンソンの歌い手には大きく分けて二種類の人がいた。

私のように歌の修行兼アルバイトをしながらチャンスを待っているタイプ。もうひとつは、お金で集客することができ、趣味の延長から自称プロになったセミプロタイプだ。

後者は、お金持ちの奥さんだったり、本人が事業をしているといったことが多い。人脈とお金があるので、コンサートを開けばお友達でいっぱいになる。あるいは自腹でチケットを買ってしまい、周囲の人に配ったりもする。

どちらが良いかどうか優劣はつけられない。社会経済という土俵で考えると、お金がまわるのであれば、どちらだってかまわない。だが、この二者は根本的に相容れないため、「自分と違う方」のタイプからは厳しい態度を取られることが多かった。

地元有名企業のオーナーの妹だというセミプロ歌手のコンサートの日も私はスタッフとして働いていた。私はいつも通り出演者用の水を彼女の前に置いた。

水が入ったグラス

「ああ、ちょっと。私はお水じゃないの。聞いてない?」

セミプロ歌手は、こちらを見ることなく言う。

「すみません。何をお持ちしましょうか?」
「さっきの人に言ってあるから。聞いて」

厨房に戻るがもう一人のスタッフは買出しに出たようで見当たらない。困っていると、セミプロと一緒に来ていた女性が厨房に顔を出した。

「ちょっと。早く持ってきなさいよ。お湯。お白湯でしょうが」

はい、と返事し私はお湯を沸かした。セミプロ歌手のお友達が大勢やってきたようで、店の方から賑やかな笑い声が漏れ聞こえる。沸いていくお湯を眺めながら、自分はなんて惨めなんだと思った。私も彼女と同じ歌手なのだ。しかし、私は思っていた。

「平凡な人生と、穏やかな日々を手放す代わりに私はスポットライトを浴びる権利を手に入れる。あんなセミプロ歌手のように、付き合いで聞きに来るお客を集めるのではない。私はセミプロ歌手とは違う。私は私の歌を聞きたいお客に来てもらうのだ。いつか、私の歌を聞く人で満席にするのだ」

これが私の選んだ道なのだと歯を食いしばっていた。

もし、サラリーマンだけの生活を送り、普通に結婚をして子どもを得るという道を選べば、私は「あっち側」にいけるのかもしれない。でも、それはしたくなかった。

当時の私は、心の中でそんなことを何度もつぶやきながら、白湯をカップに注ぎ入れていた。

今振り返って

船のロープ

結局、この店でのアルバイトと出演はトータル3年程続いた。

アルバイトをしていた頃の私はとても頑なだった。

私は「こうあるべき」という自分の勝手な思い込みに縛られていた。「オーナーに気に入られるべき」「お客様にかわいがられるべき」そして何より「歌手はストイックであるべき」と信じていた。歌で勝負しないセミプロ歌手のような人生を馬鹿にしていた。

「サラリーマンとして安穏とゆったり暮らせるお金を手にしながら歌う歌など面白くない。本来はお店でのアルバイトだけで食いつなぎ、歌だけに気持ちを向けて生きるべきだ。それなのに私は平凡で穏やかな生活を手放すことができず、かといって歌も手放せず、中途半端な生き方をしている」と本気で思い悩んでいた。そうなれない自分に嫌気がさしていた。

自分が何者かわからず、理想の自分と現実とのギャップに苦しんでいた。

自分の中の矛盾に日毎に追い詰められながら、穴蔵のような夜のステージ、暗がりの中で一筋の光だけを頼りに生きる自分に酔っていた。

あの頃は、あそこで歌うことこそが歌手だと信じていた。

だが、今はそうは思わない。

多くの経験を経た今、私はもう「こうあるべき」とは思わないようになった。

社会生活を送り、愛する人に寄り添い、そして歌を歌う、それが私のスタイルだとわかった。自分のスタイルで自分の歌を歌い、理解ある仲間と共に音楽を作るという仕事が私の仕事だと気づいた。

虹色の天の川を眺めている人のシルエット

歌だけが人生だとは思わないし、だからといって適当でよいとも思っていない。そのとき、そのときで柔軟に目の前のことを受け止める。そして世間には、いろんな生き方をする人がいて、そこに正解はなく、私が非難すべき生き方をしている人など誰一人いないのだ。

あの頃、セミプロ歌手に真っ直ぐに向けた刃は、行き場のない情熱と若さ故のほとばしるエネルギーだった。

今思うと、あの店で出会った優しい客たちや、憧れの歌手は皆そのことを知っている人たちだった。力んで勝手に苦しんでいる私の成長を静かに見守ってくれていたのだと、今ならわかる。

最近は自分より年次の若いミュージシャンと肩を並べることも多い。中にはあの日の私のように力んでいる若者がいたりする。懐かしく思うと同時に、少し胸がピリッとする。彼らに対して私ができるのは、穏やかに見守ること。受け入れることだ。そして、自分の生き様を恐れることなく見せること。あの店で、憧れの歌手や、優しい客がそうしてくれたように。

時間を経て、「次のステージ」に進んだらしい私は、ただそうありたいと願っている。アルバイトをしながら、夜な夜な自分の道を探し続けた私がその先で見つけたのは、穏やかで明るく平凡な光だった。

このお店を退職して2年後にオーナーが亡くなった。無我夢中の3年間の後、不義理をしていた私はお別れ会には行けなかった。店はオーナーに所縁の人に引き継がれたと聞いたが、その3年後、不況の煽りで完全閉店した。

お店をやめて間もなく私はサラリーマンを辞めた。歌手としての活動は最初は困難を極めたものの、やがて素晴らしい仲間に恵まれて、今では年に数回ソロコンサートを開催している。出したアルバムは3枚を数える。

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