「マスコミには答えません!」

と激昂し、私にファイルをつき返すと車に乗って出て行ってしまったのだった。

私は彼女が少しだけ記入したファイルを手に、呆然と見送るしかなかった。

「こんにちは。○○社の者です。出口調査にご協力をお願いします」

選挙の出口調査だ。もう十数年も前になるが、当時20代だった私は選挙の出口調査のアルバイトをしたことがあった。

インターネットから手軽に応募できたし、給料もよかった。1日働けば終わるのに事前研修にもちゃんと給料が出た。このアルバイトは未経験の私でもできると思った。

そして、できればそこに、「それほど難しくなかった」という感想も付け加えたかったのだが、私の場合、残念ながらそうはならなかった。

今回はその経験を記しておきたい。

出口調査とは

アンケートに書き込みしている写真

まず出口調査とは、投票所の出口で有権者にアンケート用紙を渡し、どの候補者や政党に投票したかに丸をつけてもらう仕事だ。

私はそれまでに駅前でティッシュやビラを配ったり、レストランなどで接客をするアルバイトなら経験していた。だからアンケートを取る仕事もできるだろうと考え、気軽に応募した。

事前研修ではホテルの会議室に大勢のアルバイトが集められ、当日の服装や選挙管理委員への挨拶の仕方、有権者への声のかけ方、それぞれが受け持つ会場の発表と報告の手順等が説明された。

私は午前と午後で異なる会場の担当だった。午前は山あいの大きな町、午後は山を下った川に近い町。

電車やバスでの移動は難しく、車を持っていなかった私はスクーターで移動することにした。下見が推奨されていたので、事前に経路を走ってきちんと会場の雰囲気や駐輪場の確認もしておいた。

難なく終わった午前会場

選挙当日、私はリクルートスーツを着込み、スクーターにまたがって午前の現場に赴いた。会場は鉄筋コンクリートの立派な会館で、同僚と2人でチームを組むことになっていた。

私は同僚と落ち合うと選挙管理委員を探し、出口調査の場所の指示を仰いだ。

「出口調査はそこのロビーでお願いします。トイレは廊下沿いにあります。それから、投票をする部屋には入らないでください」

てきぱきと対応してくれたのは、冷静沈着な年配男性だった。この男性を仮に「リーダー」と呼びたい。

私たちは報道機関の名が書かれた腕章をつけ、仕事を開始した。

まず、来場した有権者は必ずロビーを通るため挨拶する。そして投票を終えて出てきた有権者にアンケートへの回答を依頼する。

無視して通り過ぎる人や素っ気なく断る人もいたが、そこは事前研修で心得ていたことだし、我々の報道機関の腕章を見て絡んでくるような人もいなかった。そしてリーダーが時々来ては、問題がないかを聞いてくれた。

やがて午前の作業が終わり、2人で立ったまま集計していると、リーダーがロビーのベンチに案内してくれた。

集計を終えた私達は、アルバイト事務局に報告の電話をかけ(現在はスマートフォンに入力かもしれない)、これまたリーダーに許可を得てそのベンチで持参した昼食を食べた。そして目配りをしてくれたリーダーにお礼を言い、私はひとり午後会場へ出発した。

午前の作業はリーダーの采配のおかげで順調に終わった。午後もきっとそうなるだろう。

私は機嫌よく交通量の少ない山道を原付で快走した。午後の会場までは経路を含めて下見をしてあるから、迷う心配はない。空は曇り始めていたが、雨が降る様子はなかった。

シャボン玉の写真

荷物を置かせるな。トイレもだめだ

午後会場は、河川から引き込んだ水が田畑をうるおす集落の集会場だった。午前会場も山に囲まれた風光明媚な立地だったが、午後会場の一面に広がる田畑の光景も開放感があった。

世帯が少ないと集会場も小さいらしい。午後の集会場には玄関も見当たらず、軒下で靴を脱いでヨイショっと上がった。そこが投票箱の置かれた部屋なのだろうと、外観からして察しがつくほど小さな建物だった。

下見のときには、こんな会場でも出口調査をするんだなあと、のんびりしたことを考えたものだった。

未舗装の駐車場が出口調査の作業場になりそうだと見当はついていたが、まずは選挙管理委員と話し合う必要があった。

私はスクーターのタイヤが砂で滑らないよう気をつけながら駐車場に駐輪し、下足場から部屋をのぞきこんだ。

中にいるのは年配の男性ばかりのようだった。私はその場で挨拶し、出口調査を行ってよい場所を尋ねた。

「えっ。今からか」

最初に応対してくれた男性の驚いた様子でそう言った。

「連絡が来てないでしょうか」

「あーいや、そこの駐車場でやってもらうしかないね」

「はい」

「トイレはあっちにあるから使っていいよ。荷物は和室に。僕達も置いているから」

親切な申し出に、私は感謝した。だが選挙管理委員と荷物置き場を共用して構わないものか、研修時には聞いていなかった。それでも人目につかず書類を整理する場所を提供してもらえると助かる。ありがたく受けるべきか、やはり断るべきか少し悩んでいると、奥から70歳前後と思しき男性がぬっと現れた。

「おい。だめだ」

断固とした口調だった。

「だめって、どうしたんだよ」

「そいつを上げるな」

厳しいひと言で、それまで親切にしてくれていた男性が黙り込んだ。

やって来た人が、恐らくこの会場を仕切っているのだろう。彼を仮に「ボス」と呼ぶことにする。ボスは、午前のリーダーとは全く異なる対応をするつもりのようだった。私の方を少しも見ることなく、ボスは話し続けた。

「荷物を置かせるな。トイレもだめだ」

「トイレぐらいはいいんじゃないか」

「だめだ」

なだめる声をボスは無視して奥に戻り、困惑顔の男性と私が取り残された。

「歳を取るとあんなもんだから」

「はあ」

そそくさと奥に戻ろうとする男性に、私は一旦頷いた。が、こんな雰囲気で今から仕事をするのは苦痛だった。

「ではトイレは、他にはありませんか」

実はトイレは午前会場で済ましてきたので心配なかったのだが、とにかく何か話そうとしたらこんな話題しか思い浮かばなかった。

「前の道をそのバイクで3分くらい走ったところにコンビニがある」

これ以上食い下がるとまたボスが怒り出しそうだったので、それ以上話すことはできなかった。

私はアルバイト事務局に午後の作業に入る旨を電話し、最後に雰囲気がよくないことを遠回しに付け加えてみた。

「あのう、トイレを貸してもらえなくてですね、少し離れたコンビニに行くよう言われたのですが」

「行ってもらって構いませんよ」

「あ、はい。では……」

内心ではもっと違う言葉が聞きたかったのだが、出口調査員が建物に入れないのは、こういう小さな会場ではあり得るような気がしたので強く訴えることはできなかった。

それでも、度を超えて警戒されているような気がした。

私はボスから怪しまれないよう、引き戸を開放した投票所から見える位置に立ち、午後の仕事を開始した。

雨雲の写真

誰も信じられない

ただ立っているだけなのだが、ボスたちが時々こちらを見ては小声で話すせいだろう、監視されているようでかなり居心地が悪かった。記者はいつもこんなに警戒されるのだろうか、さぞ大変だろうと同情した。

悪いことに、空は一段と曇り、投票に来る有権者もまばらだった。投票は午前に済ませてしまう人が多いらしく、世帯も少ない地域だ。数十分間、誰も来ないことがあった。

そうなると、車で駐車場に乗り付けた有権者にこんにちはと挨拶をしても、無表情にこちらを見返すだけ。人の視線が冷たいような気がしてしまう。

私はある中年女性が車で投票所に来たので挨拶し、彼女が出てくるのを待って声をかけた。

「こんにちは。○○社の者です。出口調査にご協力をお願いします」

「はい」

投票所からうつむき気味に出てきた女性は、すんなりとファイルを受け取り、記入を始めた。ところが彼女はいくつか答えたところでハッと手を止め、顔色を変えて私を見た。

「マスコミの方ですよね」

「はい。○○社の・・・・・・」

再度名乗ろうとすると、

「マスコミには答えません!」

と激昂し、私にファイルをつき返すと車に乗って出て行ってしまったのだった。

私は彼女が少しだけ記入したファイルを手に、呆然と見送るしかなかった。建物の中からこちらを見ていたボスたちが、またひそひそと言葉を交わすのが見えた。

私はファイルの端を固く握りしめた。

もしかしてアルバイト事務局は、あのマスコミが嫌いそうなボスとけんかでもし、そのことを隠して捨て駒として私を送り込んだではないか。あのボスは、投票に来る人々に出口調査に協力してはいけないと触れ回っているのではないか。

とうとう、ぽつり、ぽつりと小雨がぱらつき始めた。

雨の水たまりに影が映る写真

天気予報は確認してから出てきていたが、降水確率が低かったことから雨具は持って来ていなかった。午前会場であればロビーで悠々と立っていられたのだが、この集会所ではそうもいかなかった。せめて軒下に入ってもいいだろうかと建物を振り返ると、ボスがすかさず歩み寄り、

「建物に近づかないでくれ」

と初めて目を合わせて私に話しかけた。

私が軒下に入りたがる素振りを見せるのも許さない気持ちで見張っていたのかと思うと、背中に氷水を掛けられた気分になった。私は身を固くすると目をそらし、頷いた。心臓が何度も脈打っている。

しばらくすると、室内からは気の毒がるような低い声が聞こえた。それがボスをますます意固地にさせたらしい。

「投票箱に気をつけろ。あいつを絶対に入れるな」

と息巻く声だけが、はっきりと聞こえた。

なぜ私が投票箱を狙う。スパイ扱いだ。私はただのアルバイトなのに。誰かにそう言いたかったが、ボスに気を遣っているのか私に近づく人はいなかった。

私は胸の動悸が収まらず、気分転換にスクーターに乗ってコンビニのトイレに行くことにした。どうしても行きたいわけでもなかったが、アルバイト事務局から行きたいときにトイレに行く許可は得ているのだから、支障はないはずだ。

先ほど聞いた通りに走ると、確かにコンビニがあった。

コンビニの駐車場に入ったものの、こちらを見るコンビニの店員すら私を疑っているような気がし、店内に入れなかった。私はスクーターにまたがったまま気持ちを立て直そうとした。

私に冷たいこの集落からは、もう一刻も早く離れたい。でもアルバイトを投げ出して帰るほど大胆にもなれない。今日だけなのだから、最後まで立っていることはできるはずだ。

私はコンビニの中には入らず、投票所に引き返した。

ボスの気持ち

透明な傘の内側から見る写真

今日だけだ今日だけだと自分に言い聞かせながら、今度は建物内にからは見えにくい場所に立った。やはり誰も来ない駐車場で終業時間を心待ちにして立っていると、建物内から声が聞こえた。

「帰ってなかった。まだいる」

ああ見つかった。

先ほど私がスクーターで出て行くのを見て、逃げ帰ったなどと噂をしていたらしい。石のように立っていると、ほどなくボスが戸口に立ち、私を見下ろした。

「もう人もあまり来ないから、帰ったらどうだ」

これはせめてもの慈悲なのだろうか。助かったという気持ちと、体よく追い払われてしまったという敗北感もあった。

終業時間まで30分ほど残っていたと記憶しているが、私は事務局に帰宅許可を求める電話をかけた。まずは誰も投票に来ないだろうから帰るように言われたことを伝え、選挙管理委員から投票箱を狙っていると思われ、小雨でも軒下に入る許可すら下りないことを付け加えた。

電話の向こうで、少し間があった。

「大変でしたね。終わっていいですよ」

ほっとして涙が出そうになった。

建物の中に向けて帰りますと告げると、最後にボスが吐き捨てた。

「来るのが遅すぎるんだ。朝来ないと調査なんかできるわけないだろ」

捨て台詞を言われてやり切れない気持ちで帰る途中、そういえば到着時にも「今からか」と驚かれたことを思い出した。

そこでようやく合点がいった。

つまりボスは、出口調査は多くの有権者が動く午前中に来ると信じ待っていたのだろう。だから午後になって現れた私が不真面目な記者であると憤慨し、こいつなら投票箱から票を盗み出して出口調査の代わりにするに違いない、絶対に投票箱に近づけてはならないと思い込んでいたのだ。

十数年過ぎて思うこと

ノートにメモを書き込む写真

厚かましい中年となってもボスの不条理さを思い出す私だが、年配の方が判断力を失って被害妄想を抱いたり、短絡的に怒ったりするのは珍しいことではないと知るにつれ、切なさは感じても腹は立たなくなった。

ともかくあれから、私は出口調査には丁寧に対応するようにしている。記者を手ひどく扱っても問題ないと考える人が存在するのは短時間でもよく分かったが、出口調査に励む彼らの大半は、覚悟などないその日限りのアルバイトなのだから。

海に山に川に! 静岡県

静岡県島田市の写真

現在私が住んでいる静岡県には海も山も川もあり、自然を相手にさまざまな遊びを楽しむことができる。

静岡県島田市のどうだん原、大井川近くの日帰り温泉『伊太和里の湯』がおすすめだ。

ハイキングコースを2キロも歩けば、8000本以上のドウダンツツジが遠くきらめく海を背景に訪れる人を待っている。もう少し進むと別ルートから車で行けるペンションもあるし、重要文化財や千年杉を擁する智満寺もある。軽いハイキングのついでに春先の可憐な花、あるいは秋の紅葉を楽しみ、汗をかいた後は温泉にも入れる。

さらにもっと静岡を楽しみたいアクティブな人にはバイク、自転車、釣り、キャンプ、サーフィンにダイビングなどおすすめスポットもたくさんある。

今回の投票所とも近い。もしボスのような人を相手にして疲れてしまっても、気晴らしに外を歩くだけで雄大な自然に慰められ、力を分けてもらえるにちがいない。

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