一人、また一人と生徒が減っていく。
1月の寒い季節だというのに、わたしの背中を冷や汗がだらだらと伝った。
震える手でホワイトボードマーカーを強く握り締めた。グラグラの膝を叱咤しつつ、私は彼らの前に立っていた。
台湾へワーキングホリデー
「来月いっぱいで、仕事を辞めさせていただければと思います」
「え、なんで」
「台湾にワーキングホリデーに行こうと思いまして」
ワーキングホリデーとは、18歳から30歳までの人を対象とした、就労しながら休暇を楽しむことのできる制度である。この期限には、30歳の誕生日を迎えてから31歳になる前日までの1年間も含まれている。つまり満30歳の誕生日を迎えた後でも、ワーキングホリデービザの申請が間に合うということだ。
「え、でも、芦田さん、もう30歳でしょ。その歳で仕事辞めてワーホリなんて行くの?」
「はぁ、まぁ、そうなりますね……(ほっとけよ)」
「その、ワーキングホリデーが終わった後はどうするの?」
「1年間語学学校で中国語を勉強するつもりですから、来年日本に帰ってきたら何かそれ系の仕事でも探すつもりです」
「ふーん、まぁ、上手くいくと良いけどねぇ」
「まぁ、なんとかなりますって」
まぁ、なんとかなりますって。軽くそう思っていたあの頃が懐かしい。結論から言うと、確かになんとかなりはしたが、そんなに簡単なことではなかった。ついでに言おう、1年で現地の言葉はマスターできない。よほどの天才か努力家でなければ。
私のワーキングホリデーが始まったのは2016年の夏のことだった。
日本語なら、私にだってできる!
さて、ワーキングホリデー期間中にできるバイトとは、一体どのようなものか。なんらかの技術がある人であれば、その関連で仕事を探すのが一番良い。調理師や美容師、ネイリストなどは、技術がある分採用してもらえることも多い。
あいにく私はそうした技術は持っていなかった。そうなると、よく聞くのはレストランの店員やゲストハウスの清掃員などの仕事である。でも、日本でも飲食店で働いた経験がなかったし、ゲストハウスは基本仕事がチェックアウト後の朝なので、9月から通い始めた中国語の言語センターの授業時間とぶつかってしまう。あーでもないこーでもない、と考えていた私の目に飛び込んできたのが「日本語教師募集中」という求人広告だった。
「日本語! 日本語なら、私にだってできる! だって日本人だから!」
今から考えるとそら恐ろしい考えだ。実は日本語はとても難しい。
試しに、「友達に会う」と「台湾に住んでいる」と「7時に起きた」と「部屋に入る」を英語や中国語に翻訳した上で、そこで使われている「に」の違いについてわかりやすく説明してみて欲しい。なんで全部「に」なのか。ちょっと考えただけでも頭が爆発しそうになる。
当時の私はそんなことを知る由もなかった。ものすごく安易に、「これならなんとかなりそう!」と思ったのだ。それで、とあるウェブサイト上で見つけた日本語教師の仕事に応募してみることにした。
ちなみに、台湾で日本語教師の仕事を探そうとすると、ほとんどが下記の条件の中のいずれかを満たしていることを要求される。
① 日本語教育能力検定試験に合格している
② 日本語教育講座420時間の履修を完了している
③ 大学で日本語教育を勉強している
恥ずかしながら、私はこのどれも満たしてはいなかった。それでも大丈夫という日本語教室を探して、応募のメールを送ってみた。翌日にはメールの返信があった。同じ週の金曜日に面接をしましょうという運びとなった。
有線が流れるカフェでの面接
面接場所は教室近くのカフェだった。チェーン店だが客は少なかった。店内には有線のような音楽が流れている。胸ほどまでもあるカウンターの向こうでは、暇をもてあました店員が楽しげにおしゃべりをしていた。少々うるさいくらいだったが、客はそんなことは誰も気にしない。そういうところが台湾らしかった。
面接をしてくれたのは、日本語教室の老闆(ラオバン、責任者のこと)の奥さんだった。ラオバンは台湾人だが奥さんは日本人で、こちらに住んでもう20年になるとのことだった。小柄で可愛らしい気さくな方だった。この方も日本語の先生として、長年活躍されていた。
「もしうちの教室で働いていただけるようなら、芦田さんには初級の授業の担当をしていただくようになります」
「初級というと、英語でいうところのアイアムアジャパニーズとか、ディスイズアペンとかそういうのですか?」
「いいえ、もっと最初の、ひらがなの五十音から」
「ひらがなの五十音……」
想像できなくて黙り込んでしまった私に、ラオバンの奥さんは笑いながら、「大丈夫ですよ、しっかり研修しますから」と言った。研修があるなら、なんとかなるだろう。安易にそう考えた私はヘラヘラと笑いながら、じゃあ大丈夫ですねー、と返した。奥さんもニコニコと笑っている。こういうのは、日本人ならではの光景かもしれない。隣の席に座っていた台湾人客が、時折チラリとこちらに視線をやっては、不思議そうな顔をしていた。
仕事内容や時給の話などを終え、では教室を見に行きましょうという話になった。喫茶店から日本語教室までは、歩いて3分ほどだ。小柄な奥さんの横を歩きながら、
「五十音のクラスを開始する前に、自己紹介とかしないとダメですよね?」
「そうね、私は一番最初に日本語で、“初めまして、私は○○です”って言っちゃう」
「えっ、それ、みんなわかるんですか?」
「わからないですよ。だってみんなこれから日本語を習い始めるんだもの」
でもそういう風にいきなり日本語を使って、相手をこちらのペースに巻き込むのも大事なのよ、と奥さん先生は続けた。それに、できるだけ日本語を使った方が、相手も喜んでくれるし、とも。なるほどその通りだな、と私は思った。せっかく日本人の先生のところに習いに来るのだから、なるべく日本語を使った方がいいだろう。
「じゃあ、授業も全部日本語でやるんですよね?」
「私は中国語でやりますよ。だってみんな日本語、わからないもの」
「えっ……。あ、そうですよね」
その言葉に私は一瞬、歩みを止めそうになった。慌てて相槌をうち、言葉を続ける。
「えーと、文法の説明は全部中国語でやるんですか?」
「うん、最初はみんな中国語でやった方がわかりやすいですからね。中級の人や上級の人には日本語しか使わないけど」
「私今、言語センターに通っていますが、中国語はまだちょっと。こういう場合は、中級や上級から始めさせていただいた方がいいのでしょうか?」
「うーん、でも中級や上級の文法は上のレベルな分だけ難しくなりますよ」
「あっ、そうですよね……」
不安そうな顔をした私に、大丈夫ですよ、と奥さん先生は言った。
「日本語の教え方にはいくつかあるんです。ちょうど今から始まる伊澤先生の授業を見せてもらうといいですよ」
よくよく話を聞けば、今回はその先生が結婚して退職することから、新しい先生を募集していたとのことだった。伊澤先生は私より年下の先生だった。
彼女は日本で日本語教育講座420時間を履修したのち来台し、日本語教師の仕事をするうちに台湾人の男性と出会い、この度結婚することになったのだという。こちらの教室での仕事は夜が多い。そうすると旦那さんとは昼夜すれ違いになってしまうので、仕事を辞めることになったそうだ。
伊澤先生の幾つかのクラスに参加させてもらったが、大人のクラスから子供のクラスまでなんでもこなせる凄い先生だった。子供と一緒に歌を歌い、たくさんカードを作ってそれを一緒に読みながら勉強したり、かと思えば上級クラスで台湾人学生とワイワイやったり。全然中国語を使わずに、スラスラとわかりやすく日本語の文法や単語について説明をしていた。板書もとても美しかった。
私はこの先生の代理として入るのだ。そうすると、この先生と同じだけのことができる必要がある。そんなことが本当にできるのだろうか? すごく不安になってきた。いや大丈夫、だって研修もしてもらったし、授業を見学させてもらったし、模擬授業もさせてもらった。なんとかなる。経験でなんとかならない部分は、気合でなんとかするしかない。
そんな思いを頭の中で巡らせながら、私はとうとう、一回目の団体クラスの授業を受け持つことになった。
痛いほどの沈黙
1月、私は新しく開講される初級クラスの教室の外に立っていた。授業が始まるのは夜の7時半。7時を過ぎた頃から、学生が集まり始めた。皆知り合い同士ではないので会話もせず、自分のケータイをいじったり教科書を眺めたりしている。12人分の沈黙が、教室を満たしていた。
開始5分前になったので、流石に私も教室の中に入ることにした。とはいえまだ開始時刻には至っていない。授業を始めるわけにはいかない。ホワイトボード用マーカーのインクがあるかチェックするフリをしたり、教科書をペラペラとめくったりしながら、その5分間をなんとかしのいだ。教科書の隣には本日の授業予定を記載した教科書が置いてある。それが学生さんたちの目に触れるのが申し訳ない気がして、見開きの教科書で覆い隠した。学生さんたちのものとほぼ同じような、まっさらな自分の教科書。
5分が過ぎ、とうとう開始時刻になった。教室の扉の外に立っていたラオバンが、こくり、と頷いた。授業開始だ。ドアノブがガチャリと音を立てて閉まるのを聞いてから、私はスーッと息を大きく吸い込んだ。
「はじめまして! 私は芦田です。どうぞよろしく」
シーン……。返ってきたのは、痛いほどの沈黙だった。当然の反応だった。相手は平仮名の五十音だって習ったことのない人達なのだから。分かっていたはずなのに、この沈黙が恐ろしかった。心臓がドッドッと音を立てて暴れはじめた。
「初次見面,我是蘆田,請多多指教!」
今度は、中国語で同じ内容の挨拶をする。ここで何人かは、軽く会釈を返してくれた。あっ、私の中国語、通じた! と思って、ちょっと嬉しくなる。その思いと共に、これはもう、下手でも中国語で授業をやるしかない、という腹が決まった。
「今天我們學習的是“五十音”。五十音的第一行是“あ行”(今日私たちが勉強するのは五十音です。五十音の一番最初の行はあ行です)」
では皆さん、私と一緒に“あ”という字を書いてください。あ、はこう書きます、イー・アル・サン! では皆さん、ノートに“あ”の文字を5つ書いてください! 5つですよ〜!
私は必死でテンションを維持しながら、ホワイトボードに平仮名とその筆順を書きまくった。なるべく学生さんたちに背中を向けないように気をつけながら、裏返りそうになる声をコントロールする。先生が自信なさげにしていれば、学生さんの方もこの先生に習い続けていいかきっと不安になってしまう。
「自信を持って、笑顔を絶やすことも忘れずに」
研修の中で言われ続けた言葉である。
全く自信の持てない授業
台湾の人は親日だ、という話をよく聞く。日本人が台湾へ旅行に行き、何か困るようなことに出会うと、どこからともなく日本語がわかる台湾人がやってきて、笑顔で日本人を助けてくれる。こんな話をよく耳にする。
でもこの教室の中には日本語がわかる人は誰もいなかったし、笑顔を浮かべている人だって一人もいなかった。そりゃそうだ。だってこのクラスの人は日本語がわからないから勉強に来ているのだし、勉強するのに愛想笑いを浮かべる道理もない。
私が顔の上にずっと張り付けていた笑顔は、30分もたたないうちにガチガチに凝り固まった。唇の端が時々引きつるのを、自分でも止めることができなかった。
そうこうしているうちに、1回目の授業はなんとか終わりの時間を迎えた。
私が仕事を始めた日本語教室では、1回目の授業の2時間をかけて、五十音を全て勉強し終えるようにする。たかが五十音、と思うかもしれないが、15文字勉強するごとに全ての文字を復習したり、単語カードを取り出して読んだりもするので、これで結構時間がかかったりする。何回か研修を受けていたこともあり、概ね時間通りにはやり終えることができた。
ラオバンは私の授業風景をドアの窓から時々覗いていたようで、おつかれさま、良かったよ、と言ってくれた。が、自分では良かったという実感が何1つ湧かなかった。学生さんたちは、にこりともしなかった。会話らしい会話も一言も交わさなかった。
研修期間であったため、授業の様子はICレコーダーで録音していた。それを聞いた奥さん先生からも、大丈夫ですよ、2回目も頑張ってね、と言っていただいた。大丈夫ですよ、良かったですよ。その言葉だけを頼りに私は授業を続けていった。
徐々に人が減っていくクラス
2回目、3回目の授業と、引きつった笑顔を浮かべながら、教科書通りに淡々と授業を進めていった。
やっと平仮名を覚えたばかりの学生さんたちに教科書以上の何をやってもらったらいいか分からず、ただひたすら、教科書の問題を順番に当てて答えてもらっていた。学生さんたちはまだ教科書の問題を読むのもやっとなため、答えるのに時間がかかる。誰かが問題を必死で答えている間、他の人たちは手持ち無沙汰だった。
間延びしたテンポだ。自分の目の前に座っている学生さんが、ふわぁ、と大きなあくびをした。後ろの席に座っている学生さんは、机の上にスマホをおいて、ゲーム画面を見ていた。そんなに広くはない教室なのに、休み時間になっても、誰も隣の席の人と話そうとしたりはしない。重苦しく立ち込める沈黙の空気の中で、ただスマホに指を滑らせている。
6回目の授業くらいで私はあることに気がついた。あれ、今日来ていない誰それさん、先週も休みじゃなかったっけ? 2回も続けて休んだら、授業についていけなくなってしまわないだろうか? 心配になってラオバンに聞いてみたところ、返ってきた答えはこうだった。
「あー、○○さんね、仕事の関係で、ちょっと来られなくなっちゃったんだって」
仕事の関係ですか、それじゃ仕方がないですね、なんて答えながら、その実私はラオバンの言葉を全く信じてはいなかった。退屈な沈黙が支配する教室の、重苦しい空気を肌で感じながら、そんな言葉を信じられるはずもなかった。
そこから人数はどんどん減っていった。先週には来ていた人が、今週は時間になっても現れない。ラオバンはクラスの人数をチェックしており、授業前に退塾や休みの連絡を受けた場合は、その分教室に並べる座席の数も減らしてしまう。1週間おきに、一つ、また一つと座席が減っていった。
1月の寒い最中だというのに、わたしの背中をだらだらと汗が伝った。それでも私は2時間ずっと笑顔を保たなければならなかったし、まして自信がないという素振りを絶対に見せるわけにはいかなかった。緊張でカタカタと震える手でホワイトボードマーカーを強く握り締め、グラグラしそうな膝を叱咤しつつ、私は彼らの前に立ち続けた。
このままではいけない
1月の終わり、動詞の勉強を始めた頃には、クラスの人数はすでに5人にまで減っていた。
この5人はそれぞれ、日本への留学や趣味の旅行でよく日本へ行くなど、理由があって日本語を習い始めた人たちだった。人数が減り過ぎたこともあり、区切りのいいところで私のクラスは他のクラスに吸収合併されることがすでに決定していた。
このクラスに一人、クリスさんという英語名の女の人がいた。
台湾人は流暢に英語を喋ることができる人が結構いるが、彼女もそんな中の一人だった。ただ外国語というとまず真っ先に英語の単語や文法を思い浮かべてしまうためか、なかなか日本語の文法に慣れることができず、四苦八苦していた。周りの人もそんな彼女の姿を見て、色々なアドバイスを彼女にするようになっていた。人数が少なくなったのと、彼女のちょっぴりヘンテコで可愛らしい日本語にも助けられ、学生さん同士の会話はだいぶ増えていた。そんなクラスの休み時間でのことである。
「だからそこ違うって、日本語の動詞は一番最後に来るんだよ」
「あー! なんでこんなところに動詞が来るの!」
クリスさんと、陳さんという男性の学生さんが一緒に話していた。陳さんは日本が好きで、一年に7、8回は日本に行くため、日本語を勉強しているという人だった。彼は自宅でもコツコツ勉強しているそうで、このクラスの中では一番よくできる人だった。
「もうやだー。どうしてこんなに難しいの」
「英語の文法で考えるからいけないんだよ。英語の文法はとりあえず忘れなよ」
ほぼ毎週聞いている会話だった。毎回授業で頭を抱えているクリスさんを見るのは、私もちょっと辛かった。と、その時、クリスさんが私の方を見てこう言った。
「でも、先生だって分からない中国語を一生懸命勉強して、それを使って私たちに教えてるしね。だからこう、お互いさまということで」
その言葉を聞いて、私は思わず真顔になってクリスさんの顔を見つめてしまった。彼女が言ったのは自分は日本語ができない、でも先生も中国語ができない、だからお互い様、ということだった。
この言葉は、私の心に深く突き刺さった。ペーペーの新人であった私は確かに、クリスさんたちから「日本語の文法を中国語でどうやって説明したらわかりやすいか」を教えてもらっていた。つまり日本語の教え方を、勉強させてもらっていたのだ。真っ当な日本語の先生なら誰もが備えているべきこの技術を、私はまだ持っていなかった。それに我慢して学んでくれていたのは学生さんたちの優しさだった。
このままではいけないと思った。
こんな風な優しさを、学生さんたちからいただくわけにはいかない。いただくのは授業料だけで十分だ。私はその授業料以上の、とびきりの日本語の授業を提供できるようにならなければと思った。
私は決心した。絶対にいい授業にしようと。
できることはすべてやる
手始めに、授業が終わってからその日のまとめをイラスト付きでホワイトボードにまとめてみることにした。私の中国語はさっぱりだけど、文字にして書いたら少しは伝わるかもしれない、と思ったからだ。それで学生さんの文法に対する理解度が格段に上がった!……かどうかは分からないけれど、学生さんがその日の内容をもう一度見返すときに、ちょっとは役に立っていたようだ。
それから私は、さらにラオバンに研修をしてもらったり、色々な先生の授業を積極的に見せてもらったり、自分で本を買って勉強して授業ごとに教案を作ってみたりした。
とりあえず、自分ができるであろうすべてのことをやってみた。
大変ではあったが毎日が充実していた。
絶対にいい授業にするという目標があったから、それに向かってまっすぐに進んでいくことができた。授業とは人と人との対話だ。だから気持ちを込めれば込めるほど学生さんたちにも伝わっていくようだった。クラスは徐々に活気付いていった。
その結果、伊澤先生にはまだまだ遠く及ばないけれど、私の授業を楽しいと言って参加してくれる学生さんたちが増えていった。一度は仕事の都合などで続けられなくなってしまっても、また時間ができたから、と言って戻ってきてくれる学生さんたちもいた。とてもありがたかった。
私はやっと日本語教師として生徒の前に立てたと思った。
ワーキングホリデーを終えて
その後、ワーキングホリデーの期間が終了した私がそれからどうなったかと言うと、実は今も同じ職種で、同じ職場で、働いていたりする。今はもうアルバイトの身分ではなくて、正社員として。ワーキングホリデーの期間が終了しても日本に帰らず、そのままこちらに残ることにしたのだ。日本語教育に関する勉強については、一年に一回行われる「日本語教育能力検定試験」に向けて日々勉強を重ねている。
また去年から一つ、新しく始めたことがある。台湾の某大学の大学院に通い始めたのだ。専攻は翻訳。「日本語教育じゃないのかよ!」と言われてしまいそうだが、日本語教育を勉強できる大学がちょっと遠いところにあるためそちらに通うと仕事を続けられなさそうだったのと、中国語と日本語の比較について研究をしたかったと言うことがあって、翻訳を勉強することにした。今はヒーヒーいいながら、仕事と大学院の授業と大量の課題をこなす毎日である。
世の中の素晴らしい日本語教師の皆様におかれては、この努力を以て、こんなポンコツ日本語教師がいることを、何卒お許しいただきたいと思う次第である。