卑屈で劣等感のかたまりだった僕は、治験バイトでなぜかちょっとだけ人生を学んだ。

子供のころから、要領が悪く不器用なせいで、よく大人に叱られた。特に思春期以降はそこに生意気さも加わって、バイト先ではあらゆる罵詈雑言を浴びせられた。とある接客バイトの飲み会で「お前みたいにモゴモゴ話してる奴、俺は大嫌いなんだよ!」と店長にビールをぶっかけられたこともある。

たしかに若かりし頃の自分はまったく使えず、気も利かず、愛想も悪く、時間も守れず、そのくせプライドだけは高く、雇用者側からすればイライラの元でしかなっただろう。そういう経験ばかりしたおかげで、「アルバイト=恐怖」でしかなくなり、面接申し込みの電話をしようとするだけで、ビールをかけてきた店長の鬼の形相が思い出され、携帯電話を持つ手が震えた。

「これはまずい」

大学3年生の僕は、大いに焦っていた。アルバイトさえ満足にできない人間がこの先、社会の荒波の中でうまくやっていけるはずがない。社会の入り口にさえ入っていない、こんなところでつまずいてどうする。

成功体験がほしい、と思った。自分でもこなせたという経験をちょっとずつ積んでいけば、自信につながりきっと社会も怖くなくなるはず。

寝てるだけで10万円のバイト

一万円札

ある日、朗報が舞い込んだ。それは僕以上に筋金入りの社会不適合者である友人浅田からもたらせれた。

「ただ寝てるだけで、10万円もらえる」
「なんだ、それ。そんなことあるわけないだろう」
「いや、あるんだな、これが。俺はとうとう見つけたよ」

浅田いわく、そのバイトは大学のダメな人たちの間でまことしやかに囁かれていたという。それは治験バイトというものだった。

新薬が厚生労働省に認可されるためには、最終的な臨床試験が必要となる。つまり治験バイトとは、この試験の被験者になること。実施にあたり国が厳しいルールを定めているため、重大な副作用などが発生する可能性は少ない。とはいえ、認可前の薬を試すため、高収入が期待できる。
浅田の説明をまとめると、そのようなことだった。

今ならばネット検索で治験者募集が見つかるらしいけど、当時はこうした一風変わったバイトを見つけるのは難しかった。この募集も浅田が口利きで見つけてきたもので、病院の電話番号は一般には非公開だった。僕も風の噂で聞いたことがあったし、都市伝説的なものだと思っていた。

「やる!」
浅田 に即答した。

これなら幾多のバイトでやらかしてきた僕でもできそうである。レジを打つわけでも、料理をテーブルに運ぶわけでも、厨房でフライパンを振るわけでもない。なにしろ寝ていればいいのである。その状態で、一体どんな失敗ができるというのか。

「おいおい、『ありがとうございます、浅田様』だろ?」
「……ありがとうございます。浅田様」

浅田にはさんざん恩を着せられ、夕飯に大盛りラーメンまで奢らされることとなった。(しかし浅田にはこのあと、しっかり天罰が下った)

謎のバイト・治験バイトとは

聴診器と書類

流れとしてはこんな感じだった。
病院に電話で申し込む、健康診断を受ける、診断に通れば2泊3日×2回の臨床試験に参加する。次回は最初の試験からおよそ2週間後に行い、試験者の健康経過を観察する。被験者は16名を予定。

というわけで、僕と浅田は中央線沿線にあるその病院まで出向くことになった。聴診や採血など一般的な健康診断を受ける。合否はのちに電話で知らせてくれるので、合格だったら試験開始日にもう一度病院に行くことになる。病院で看護師さんから当日は暇つぶしになるものをいっぱい持ってくるようにと念押しされた。その口ぶりから、相当暇であることが予想された。とりあえず楽なのは間違いなさそうである。

浅田は帰りの道、10万円で何を買おうか、看護師さんが可愛かったので試験中になんとかして落とす策略を練っていた。

僕も10万円で何を買うか考えた。ビデオカメラが欲しいな、と思った。当時、大学で映像を学んでいた僕は、創作の方でも完全に行き詰まっていた。創ったものはことごとくけなされるか、黙殺されるかで完全に卑屈になっていた。学内で「できる」と称されている人たちはみな、マイカメラを持っていた。僕もマイカメラが欲しかった。自分に才能がないのは、ビデオカメラがないせいだとけっこう本気で信じていた。

あまり褒められた生活は送っていなかったが、さすがに若いだけあって健康診断は問題なく通過したとの連絡がきた。

が、なぜか浅田が怒り心頭でアパートにやって来た。

「健康診断、落ちたぞ!!!」
「えー、看護師さん、落とすって張り切ってたじゃん」
「変わってくれ!!」
「できるわけないだろ」
「なんなんだよもおおお!!!」

浅田は本戦に参加することさえなく、あえなく退場となった。10万が入ると見越してローンで買ったギターの支払いだけが残った。しかも浅田はギターにすぐに挫折し、1ヶ月後にはただのインテリアと化していた。

臨床試験開始

病院のベッド

臨床試験開始日、16時に病院を訪れた。暇つぶしグッズと言っても大したものは思いつかず、カバンには着替えや洗顔道具と数冊の本だけ詰めてきた。

被験者全員が集まると、一通り医師から薬の説明が行われた。今回飲むのは胃薬のジェネリック品とのことで、1時間ほど細かい説明があった。しかし被験者でまともに聞いているように見える者はおらず、看護師さんも爪の甘皮をはぐのに夢中だった。

次に看護師さんからスケジュールの説明。これからまずは薬を一人ずつ飲んでもらい、24時間後にもう一度飲む。明後日の朝10時に一旦解散、その後2週間後にもう一度集合し、同じスケジュールをこなすこととなる。

朝は6時半起床で、夜は22時就寝、激しい運動は禁止、基本ベッド周りでの生活を推奨。食事は7時、12時、18時の三回。就寝時間以降は照明が落ちる。シャワールームはひとつしかないので、譲りあいの精神で就寝前までに済ませること。他の飲食は一切禁止、菓子などを持ち込んで食べているのを見つけ次第、その被験者は試験取りやめとなる。いままでも何度か起きているので、注意するようにとのこと。

朝6時半起床の22時就寝とか、なんという規則正しい生活だろう。朝4時に寝て昼前に起床する生活を送っていた身にはつらい。だが、それよりも衝撃だったのは、ここまで来ておいてお菓子を食べて追放される者がいるという事実。悲しすぎるでしょう、それは。

さて、僕ら被験者も試験中、ただ牛のようにごろごろしていればいいというわけではない。

7時から21時までの間は、1時間に一度、診療室で採血が義務付けられている。1日を完全に病院で過ごすことになる2日目は、1日14回、我々は注射針を腕にさされないといけない。これはまあ、けっこうつらいのが予測できる。注射が苦手な人はまずこのバイトは無理だろう。僕も得意な方ではないので、考えると気が重くなる。

ともあれ、説明も一通り終わり、夕飯までは自由時間。自分のベッドの確認と身の回りの整理をしておくように言われて解散となった。

早速、宿泊所となる2階の部屋に行ってみる。そこそこ広い、けど16人が寝起きするには……うーん、狭い……。もともと病院の待合室をだったのだろうと白い壁と床に囲まれた一室。そこにパイプベッドが整然と並べられている。

自分の名前のプレートがかかったベッドに腰を下ろす。壁際だったので、ちょっと安心。あとはお隣のベッドの住人(?)がどんな人か。これから数日を過ごすにあたって、これはけっこう大事だ。なにしろベッド同士の距離は1メートルもない。うまくやれる人だといいな。

説明会でちらっと見た限り、首元までびっしりタトゥーが入った人だとか、スキンヘッドに耳と鼻がつながったピアスをしている人だとか、なかなか凄みのあるお兄さん方もいたのである。どうか厄介な人ではありませんように。しかし僕の願いは、別の意味で思いっきり裏切られることとなった。

お隣さんは強烈キャラ

秋の紅葉

「よっこらせーの」
ベッドにやって来た人は、いきなりオジサンくさい口調で言った。いや、実際もう完全にオジサンで、僕は思わず目を疑った。

おそらく50歳近く、見事な太鼓腹にロングヘアに無精髭、秋なのに草履を履いている。タモリ倶楽部の空耳アワーでおなじみの安斎肇さんから浮世離れ感だけは残して、可愛げを抜いた感じだった。怪しさ百点満点だ。

というか、治験バイトってこんな不健康そうなオジサンも来るんだ。ん? ということは浅田はこの人に健康診断で負けたわけか。浅田よ、お前はどれだけ不健康なんだ…。

「あ、どうも…」
「よう」

こちらが挨拶すると、意外にもひとなっつこい笑みを浮かべてくる。前歯が一本ない。どうしちゃったの、その歯は? 僕の疑問をよそにオジサンは重盛だからシゲさんて呼んでよ、と呼び方を指定してくる。

「君、この仕事、何回め?」
「はじめてです」
「ほう、そうかい、新人かい。オレはね、別の病院含めるともう10回はやってるかな。今回は健康診断、ギリギリパスだったわ、危ない危ない」
「そうなんですか……」
「で、君はどうせあれだろ、この仕事が楽だと思って応募してきた口だろう?」
「はあ……」
「甘い! つらいぜ、この仕事は! なにせ動けないし、やることないし、ほぼ寝たままでいなきゃならんのだからなあ」

シゲさんはこの仕事(?)に人並みならぬプライドを持っているらしかった。ちなみに後で聞いた話では、普段はバイヤーの仕事をしているとのことだった。詳しく言及すると言葉を濁してごまかす感じから、あまりおおっぴらには言えない内容だったのかもしれない。

荷物の整理も終わり、夕飯の時間になったのでみんなで食堂に向かう。円卓にお弁当が置かれているので、好きな席に座って食べる。ハンバーグ、エビフライ、唐揚げ、生姜焼きと超高カロリー、ごはんも山盛りでボリューム満点。栄養バランスという概念の対極の見事なラインナップ。

それを音楽なども一切ない中、男たちが肩を寄せ合って食べる。シゲさん以外は喋る人もおらず、ある種の緊張感がずっと漂っている。一癖も二癖もある人々が詰め込まれた空間には、「何かあったらやってやんよ」という一触即発の空気が流れていた。食べるだけでこんなに疲弊したのははじめてだった。

その後は採血をして、シャワーや就寝準備。このシャワーが曲者で、なにしろひとつしかシャワールームがないのだ。シャワーに先に入るのは、コワモテの方々ばかり。しかも長い。看護師さんのいう譲り合いの精神はどこにいったのか。結局その夜はシャワーを諦めることにした。

10時になり、強制的に照明が落ちる。当然、すぐに眠れるわけもなく、かといって本を読むには暗すぎる。他にすることもなく、あれこれとこれからの人生について考える。自分は一体何になりたいんだろう? どうしてこんなにも社会に出ることが不安なんだろう? 自分に向いている生き方ってなんだろう?

「ぐおおおおおおおおおおおおおお」

地鳴りのような音がして、慌てて起きるとシゲさんが豪快なイビキをかいて眠っている。おい! こっちがせっかくシリアスな気分に浸ってるのになんつう凶悪なイビキをかいてんだ。おかげで、考えごとも全部吹っ飛んだ。

その音は、夜中を過ぎてもおさまることもなく、僕と周辺ベッドの人々を困らせた。イライラしながらトイレに行くと、全身タトゥーのお兄さんと鉢合わせた。「まいっちゃうよなあ」と苦笑するので、「ほんとに」と答えると、「枕で押さえつけて窒息させるかあ」と笑えない冗談を言う。結局、タトゥー兄さん考案のティッシュを耳栓がわりつっこむことで、なんとか乗り切ることができた。このタトゥー兄さんはなぜか僕のことを気に入ってくれて、けっこう翌日以降も話した。バーテンをしていた店で昔の女に包丁でお腹を刺された話は、今も記憶に鮮明に残っている。

弁当ひっくり返し事件

日の丸弁当

2日目、朝食を食べに寝ぼけ眼で食堂に向かう。ハンバーグ、エビフライ、唐揚げ、生姜焼き…。やたら高カロリー、ごはんも山盛りでボリューム満点。あれ、デジャブかな? 昨日明け方4時までイビキと格闘して衰弱気味の身にこれは堪える。しかもやはり異様な緊張感。

「なに、食欲ないの?」

シゲさんだけがそんな空気も一切気にせず、もりもり食べている。あんたの爆音のイビキのせいだよ、と言える度胸もなく、がんばって食べた。

はち切れそうなお腹を抱え、洗顔を済ませ、採血のために診療室に行く。すでにみんな、一列に並んでいるので最後尾について番を待つ。自分の番がやってくる。チクッ。はい、終わり。

戻ると、「なあ、ガキ使のDVDあるから、一緒に見ようよ」とシゲさんがベッドではしゃいで言う。子供かよ、あんたと僕、多分父親と息子くらい歳離れてるよ。とはいえ暇なので、シゲさんのノートPCで一緒に見せてもらう。タトゥー兄さんがやってきて、「俺も見てえな」と照れ臭そうに言ってくる。ちょっと可愛かった。

シゲさんはもう何度も見てるだろうに、膝を叩いて大ウケする。いちいちウケてるかこっちを確認してくるのも、鬱陶しい。

1時間が経って採血に呼ばれて行く。前日2回の採血と今日に入ってからの4回で、左腕はかなり腫れている。しかも、今までの血管を避けて注射針をさすので、その間の針先が血管の中をうごめく感触が、なんとも気持ち悪い。

「これってさあ、どう見てもヤク中だよなあ」

シゲさんがうれしそうに腕の注射痕を見せてくる。たしかに針痕でいっぱいの腕はだいぶ物騒だ。まだまだ採血の時間は残っているので、さらに重症患者っぽくなっていくことだろう。
そんな中、一番大変そうだったのがロカビリー風な格好をした革ジャン姿のお兄さん。血管が細すぎてなかなか針がささらず、看護師も苦戦している。結果、左、右と両腕を試してたがやっぱり針がなかなか通らず。足の付け根からの採血を試すことになった。もともとガリガリなほどに痩せているし、血を抜かれてなんだか顔色が悪い。しかし革ジャンは、僕ら他の被験者とは明らかに距離を取っていて一切喋ろうとしない人だったので、誰も彼に声をかけたりはしなかった。

採血が済めば、特にやることはない。本を読もうと思ってもシゲさんにことごとく邪魔される。うざい。かといって、ベッドに横になっていてうとうとしていると、「は〜い、寝ないでくださいね」と様子を見にきた看護師さんからすぐさま注意される。時間の進みが異様に遅い。

窓の外は、よく晴れて日差しが降り注いでいる。線路沿いの道を、いろんな人が通り過ぎていく。手を繋いで楽しげなカップル、子供の手を引く若いママ、スーツに身を包んだ青年、かしましい女子高生。なんだかみんな、幸せそうで楽しそうだ。

僕らはガラス一枚隔てた場所からしかそれを見ることができない。その薄いガラスの壁がすごく分厚く感じてしまう。僕はバイトすら満足にできず、将来に希望もなく、才能もなく、金もない。いつも劣等感にまみれている。ああして人生を謳歌している人たちがとてもまぶしい。ひとり気分を落ち込ませていると、「なに、どったん? 急に暗い顔して」とシゲさんが聞いてくる。

「いや、なんか世の中と自分の差を感じて」
「さっき食堂のぞいてきたらさ、昼飯はサイコロステーキ出るみたいよ」
全然話が噛み合わなかった。

昼の採血を終え、昼食を食べにまた食堂にいく。シゲさんの無駄すぎる情報通り、たしかにサイコロステーキが入っていた。わきにはレタスとブロッコリーも添えてある。久しぶりに緑色の食べ物を見て、テンションが上がる。朝あれだけ満腹だったのに僕もすっかり空腹だった。若いってすごい。

ところが、ここで事件が起きた。

採血でまた苦戦したのだろう、一番最後にふらふらやってきた革ジャンの兄さんが座る窓際によろけて、自分の弁当を床に叩き落としてしまった。

しーん、と静まる室内。弁当を落としても、表情を変えようとしない革ジャン。気まずい沈黙……。やがてみんな、興味ないとばかりに無言で食べ始める。誰とも交流しなかった革ジャンに、

「いや、待て待て」

とそれを止めたのはシゲさんだ。

「それじゃあ彼が何も食えないじゃん。ちょっとずつおかずをカンパしてやろうよ」

シゲさんは明らかに変人だし素性もしれないが、なぜか奇妙な魅力がある。人間味をかんじるというのか。だからなのか、シゲさんの言うことに、みんなも不思議と素直に従った。シゲさんが弁当の蓋を回すと、みんな文句も言わずおかずやごはんを蓋に載せていく。運動会でお弁当忘れた子供みたいな状態。
山盛りで返ってきた弁当の蓋をシゲさんが差し出すと、革ジャンはしばらくそれを見ていた。が、ペコっと軽く頭を下げて受け取ると、無言で食べ始めた。

不器用だけど愛すべき人々

拳を上げた人たちの夕日のシルエット

その弁当事件がなんとなく呼び水になって、被験者同士でも結構交流が生まれた。タトゥー兄さんからいろいろヤバイ話も聞けたし、日本でお金を貯めてはアジアを放浪しているヒッピー、独特すぎる彼女との性生活を暴露して全員を引かせた体育大の学生、1年前までホームレス生活をしていたという真面目そうな青年、自分を天才だと思っている音楽専門学校に通う超ナルシスト、みんなどこかズレていて、どこか変で、それでもなんとか自分なりに生きようとしていた。それが僕にはとても新鮮に感じられた。

寝るまでの間、5人くらいで桃鉄をやろうということになった。シゲさんが革ジャンにも声をかける。

「君もさ、こっち来て桃鉄やんない?」

革ジャンは一瞬びっくりした顔をしていたが、恐々といた感じでこっちにやってきた。

「俺、桃鉄やったことないんだけど」

あ、喋った。個人的にはこのバイトの一番のハイライトだった。

そのあとは、本当に時間が経つのもあっという間だった。気づけば、消灯時間。「あんたたち、修学旅行じゃないんだからね」と看護師さんも呆れていた。でもなぜかちょっとうれしそうで、「こんなにみんなが仲良くなるのって滅多にないのよね。いつもピリピリしててさ」と笑っていた。

明かりが消えたあと、シゲさんが隣のベッドから感慨深げに言った言葉が印象的だ。

「みんなさあ、不器用な奴多いからな、ここ来る奴って。だけど話してみたら意外といい奴ばっかりでさ、俺は好きなんだよなあ」
「そうですね」
「人間、みんな違うから面白いんだよ。その違いを大事に生きる方が楽しいよ」

ああ、そうか。シゲさんは昼間に僕が言った「世の中と自分の差を感じて苦しい」という発言に対して答えたのだ。なんだ、ちゃんと人の話、聞いてたんじゃないか。

昼間、感じていたあの分厚いガラスの壁で自分と世間が隔てられているという感覚。急にそれが、自分が勝手につくっていたイメージだったと気づく。シゲさん。この人、一体何者だろう? もしやすごい人なのでは。見るとシゲさんはさっきまで話していたのが嘘みたいにもう熟睡モードに入っている。そして昨夜と同じく……

「ぐおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」

すぐに壮絶なイビキをかきはじめる。
おかげで僕の安眠はその日も訪れなかった。

さよなら治験バイト

都市の朝日

翌朝は朝食を食べて、一度採血をして解散。臨床試験にも問題は何もなし。もちろん副作用も何もない。寝不足と両腕の注射痕を除けばおそろしいほど健康体だった。

そうして2週間後にもう一度、2泊3日で試験が開催された。しかし、報酬としてもらえる予定のバイト代の一部を賭けて、桃鉄やらトランプやらをしていたら、あっという間に終わっていた。
全行程の最終日、封筒でピン札の10万円が各自に配られた。それなりの達成感も得られて、満足だった。

封筒をもらった人から順々に病院を出ていく。僕が出ていくと、「駅まで行こうぜ」とシゲさんが待っていてくれた。

これからこのバイト代を持って競艇に行って、全額つっこむつもりだというシゲさんの正気を疑いながら歩いていると、革ジャンが走って追いかけてきた。

「あー、弁当の時、助けてくれてあざっした」

革ジャンはシゲさんにそれだけ告げると、じゃ、と早足でいってしまった。しかしシゲさんの心はすでに競艇場にいるらしく生返事で応対し、僕ともグダグダな感じで駅で別れた。

その後、僕はこのバイトで会った誰一人とも会っていない。バイト代の10万は生活費やら浅田にたかられたりであっと間に消え、結局ビデオカメラを買うことも、つまり僕が傑作を撮ることもなかった。それから、僕は重い腰をあげて創作をはじめるのだけど、しかしそれは映画ではなくてなぜか小説で、それもまた何年も先の話だ。

あの場所でほんの短い時間を共にしたあの生きるのに不器用な人々は、今何をしているだろう。ほとんどの人の名前すらもう出てこないけど、みんな、元気に暮らしているといいなと思う。いつかシゲさんと再会することがあったら、あのやたら高カロリーな弁当をまた一緒に食べてみたい気もする。

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