圧倒的な睡眠不足だが、どうしても眠れない。

耳をつんざくような戦闘機のエンジン音は体の内側を揺らされているようで眠りにつくことを許してくれないのだ。

東京都小笠原村硫黄島

カーテンの写真

圧倒的な睡眠不足だが、どうしても眠れない。耳をつんざくような戦闘機のエンジン音は体の内側を揺らされているようで眠りにつくことを許してくれないのだ。

薄汚れたカーテンを開け海風に腐食されて錆びついた窓を開けると、硫黄の香りを含んだ生暖かい風が頬を撫でた。満天の星空を見上げると手が届きそうなほどの低空を旋回していくF15戦闘機のライトが規則正しく点滅しているのがみえた。機体が遠ざかるにつれ音は次第に小さくなっていくが、すぐさま後続の戦闘機が爆音をあげて飛び立ち高度を上げていく。夜間の飛行訓練が始まると途切れることなく離発着を繰り返し、深夜までジェット音は途切れることがない。

「明日もはええんだから、はやく窓閉めて寝ろ」

2人部屋の相棒である松さんはやれやれといった感じでそういうと、すぐに小さな寝息を立てて再び眠りに落ちている。松さんは今年で70歳になるようには見えないほど姿勢がよく若者よりも活力に満ち溢れている。体がよく動くし、どことなく気品があって育ちのよさがわかる。ここに来る前は一体どんな暮らしをしていたのか気になっていたが、松さんは自分の話はあまりしたがらず、僕も松さんが定年してからは毎年この場所に来ていること以外は深く詮索していない。僕は音を立てないように窓を閉め、熱帯の空気で湿っぽくなったベッドに横になったが、絶え間なく続くエンジン音に頭が冴えてしまう。

F15の戦闘機が飛び交うこの場所はアメリカではなく、日本の首都東京だ。

硫黄島の海岸の写真

厳密にいえば東京都小笠原村硫黄島。住所は東京都だが、東京から南に1200km離れ、インターネットもなければ郵便も届かず日本の首都に属しているとは思えない太平洋の孤島だ。それでもかつては千人以上がこの島で暮らし、硫黄の採掘や、熱帯の気候を生かしてサトウキビやパイナップルの栽培、漁業を営み豊かな暮らしをしていたという。

だが太平洋戦争の末期、日本本土とグアム、サイパンの中間点に位置するこの小さな島は、アメリカにとっては日本本土を中継なく空襲できる飛行基地として、日本にとっては本土空襲を避けるための絶対防衛ラインとなった。

硫黄島は現在も火山活動が続く火山島で標高200mもない摺鉢山以外は平地のため、日本側は防衛が難しくアメリカ軍も早期にこの島を攻略できると考えていた。しかし、硫黄島守備隊を率いた栗林中将は物量や装備に勝るアメリカ軍に勝つ手段はないと確信し本土空襲を少しでも遅らせるため全長18mに及ぶ広大な地下陣地を島内に構築し、ゲリラ戦でアメリカ軍を迎え撃つ作戦を実行した。当初5日間で島を占領できると考えていたアメリカ軍は占領に1か月以上の時間を要し、日本兵を上回る死傷者をだした。

そしてこの硫黄島での両軍の壮絶な戦いは、日本のみならずアメリカでも広く知られ、クリントイーストウッド監督指揮で両軍の視点から描かれた映画が作られ日米で大ヒットを記録した。日本兵もアメリカ兵も祖国から離れたこの小さな島で祖国のために戦い、愛する者を残して儚く散った。そして今も多くの英霊がこの島には眠っている。

星条旗を掲げる兵士が刻まれた岩

硫黄島食堂の3週間の短期アルバイト

戦後は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれ、南鳥島と併せ日本南端の重要な防衛拠点とともに航空機の緊急用の着陸地として利用されている。

この島は自衛官など基地関係者以外の民間人の立ち入りは基本的に禁止され、戦前に住んでいた島民の帰還もいまだ許されていない。ところが、年に数回だけ民間人がこの島を訪れるチャンスがある。それは、在日米軍の離発着訓練が行われる期間に臨時で雇われる防衛弘済会という会社が運営する自衛隊員用の硫黄島食堂の求人に申し込むことだ。

厨房で野菜を切る写真

米軍の訓練時にアルバイトが雇われるのは、米軍の人員分作る食事量が増えるという理由だけでなく、米軍と自衛隊で食事のメニューが異なるという理由が大きい。そのため普段の食堂の人員では回せないので3週間の短期のアルバイト求人が毎年出される。この島へは民間人の行き来がないため、自衛隊の輸送機が唯一の交通手段となる。そのため食堂のアルバイトであっても自衛隊の輸送機に乗ることができる。そしてその輸送に使われるのはC2輸送機も含まれ、ミリタリー好きには憧れらしく、それ目当てで来る人も多い。

僕がこの島へ来た理由は、所属していた大学の提携システムを使いロサンゼルスへ留学した際にホームステイ先の親戚のおじいさんが亡くなり、葬儀へ参列したことがきっかけとなっている。

白い棺桶を運んでいる写真

亡くなったおじいさんは元アメリカ軍人で、かつて硫黄島で日本軍と戦い、勲章を受章した地元の英雄である。アメリカでは硫黄島で戦ったという話は賞賛されることらしい。そのため葬儀は華々しく執り行われ、葬式なのに戦勝を記念する歌までも歌われた。棺に入れられたおじいさんの周りは花と勲章が飾られ軍人としての誇りが満ち溢れているようにみえた。かつての敵国であり敗戦しか知らず、学校で戦争の話をするのがタブー視され、戦争に対してネガティブなイメージしかない日本人の僕にとってその光景のイメージギャップは衝撃的だった。

そしてその葬儀で語られたのが、ロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを取ったバロン西こと西竹一大佐の話だった。おじいさんはオリンピックで西大佐の競技をみて彼にあこがれ軍人になることを決意したらしかった。

この時、硫黄島の歴史も西大佐のことも何も知らなかった僕は自分の無知を恥じた。ロサンゼルスオリンピックで金メダルを取りアメリカ人から愛された男とそれにあこがれて軍隊に入った男が硫黄島で戦わなければならなかった運命を思うと、運命の皮肉を感じずにはいられなかった。

その出来事があって以来、僕の中で硫黄島は特別な場所となり、英霊に手を合わせたいというという気持ちに駆られるようになり、幸運にもそのチャンスを手にすることができたのである。

食堂の仕事

宿舎の写真

「はよ起きて、準備しろ」

松さんはそう言うと、足早に部屋を出ていってしまった。束の間のまどろみから目覚め、時計をみると3時45分を示している。まだ朝日は登り始めておらず朝なのか夜なのかわからない時間だ。食堂の仕事は、毎日4時からで、演習中は休みなく仕事が続く。ベッドから飛び起き、眠りに未練を残しつつも宿舎から食堂までの薄暗い道を走った。

硫黄島食堂で配属になったのは士官が食事をするホールでの給仕の仕事だ。

軍隊は一般兵と少尉以上の士官階級とでは待遇が違うため、硫黄島でも士官と一般用で食堂がわけられている。わけられているとはいっても食事の内容はほぼ同じで、使える調味料が増えているのとお茶のパックが用意されているぐらいしか差はない。自衛隊では士官も特別なメニューではなく質素な食事が用意される。

そんな士官用のホールでの仕事内容は洗浄乾燥が終わった食器を並べたり、出来上がった食事を厨房からホールに運んだりするという2日もすれば覚えられる簡単な仕事しかない。しかし娯楽が少ないこの島での暮らしのなかで食事は何よりの楽しみなので、食事を楽しむ隊員をみているのはこちらも気分が良い。松さんはもう10年間かかさずにこのアルバイトへ参加し、ずっと士官のホールの仕事をしているから、顔見知りが多く自衛隊員からも米軍からも慕われている。

食事の内容

給食の写真

7時から8時までが自衛隊員の朝食の時間で、8時を過ぎると米軍用の洋風な朝食にメニューが差し替えられ、被ることはない。しかし、夕食だけは同じ時間に設定されているため、米軍がステーキやハーゲンダッツを食べている横で、自衛隊員は焼き魚の骨を綺麗に取ってむしゃむしゃ食べているという光景が繰り広げられる。明らかに食事の豪華さが違うので、アメリカの軍隊っていうのは金持ちなんですねと松さんに言うと意外な答えが返ってきた。

「全部日本の税金で賄われている。だから彼らは無料よ。日本は敗戦国だからのぅ」

そういって遠くを見つめる松さんは少し寂しそうな顔をした。自衛隊員の食事は一食だいたい300円なのに対し、米軍の食事は一食1000円の材料費で作られている。自衛隊員の食事代は給料から天引きされるが、米軍の食事は思いやり予算として日本国の税金が使われ、彼らは食事代を負担することはない。たしかに、日本とアメリカの食文化の違いは大きく考慮されてしかるべきなのだが、食事内容があまりに差がある。自衛隊の食事が質素で、米軍の食事に多くの税金が使われている事実は納税者である私たち国民は知っておかなければならない。

僕の仕事は4時から正午までの8時間労働で、午後は自由時間となる。アルバイト参加者の多くは元自衛官やミリタリーオタクなので、島内の散策や戦闘機の写真を撮ったりして楽しんでいる。松さんも仕事が終わると、決まってヘッドライトと荷物のたくさん入ったリュックをもってどこかにでかけていく。そしていつもお酒の匂いを漂わせて帰ってくる。僕も島内を観察して回りたいと思っていたが、不眠の影響で宿舎にいることが多かった。

泥だらけの松さん

スコールが降っている写真

硫黄島は亜熱帯気候のため時折スコールに見舞われる。前が見えないほどスコールが激しく降った日、泥だらけになりながら松さんが宿舎に戻ってきた。

話を聞くと暗い地下壕から出てくるときに地面がぬかるんでいることに気が付かずに転んでしまったらしい。硫黄島には旧日本軍が掘った地下壕が今もそのまま現存している。松さんはどうやら毎日その地下壕の中に潜っているようだった。そしてたまたま通りかかった米軍のバギーが松さんの汚れた姿をみてバギーに乗せてくれて帰ってきたらしい。

次の日も松さんは仕事終わりにいつものように出かけようとしていたので、ついて行ってもいいですかと僕は松さんにお願いした。松さんは好きにしろと言って、部屋にあった冷蔵庫から2リットルの水を僕に投げた。僕は初めて硫黄島の地下壕へ足を踏み入れた。

硫黄島の地下壕の写真

地下壕は人がしゃがんで通れるくらいの幅しかなく、さらに猛烈な硫黄臭のする熱気に包まれている。体中の毛穴から汗が吹き出し、すぐに喉が渇きを感じた。こんな場所は人が長いこといられる場所ではない。この地下壕に潜り飢えと渇きに苦しみながら1ヵ月以上戦った兵士の苦労は私の想像の範疇を超えていた。そして、この地下壕一つ一つに火炎放射器と手りゅう弾が投げ込まれ、さらに入口を封鎖され生き埋めにされた人もいるという。地下壕で亡くなった将兵の多くの遺骨は今も地下壕に残されたままだ。

松さんは立ち上がれるくらいのスペースがある場所で般若心経を唱え始めた。そして般若心経を唱え終わるとリュックからペットボトルの水とワンカップを2つ取り出しそれぞれを地面に撒きだした。

「親父はこの島で死んだ」

と松さんが言う。松さんがこの島に来ている理由がわかったが、その理由はあまりにも悲しいものだった。

「遺骨はまだみつかっていないが、この島全体が墓みたいなもんだ。墓参りだ」

といってリュックからワンカップを取り出して松さんも飲み始めた。

「一度でいいから親父と一緒に酒が飲みたかった」

そういう松さんに僕はかける言葉がみつからなかった。

軍服を着た幽霊

一方では戦争の英雄として生き、華々しい葬式が開かれ人生の幕を閉じた人がいて、もう一方では愛する家族を残し地下壕のなかで死んでいった人もいる。

そして今日本の領土で米軍が訓練をして、日本の防衛に従事している。日本の税金も多く使われている。その地で父親を亡くした松さんが米軍の士官の給仕として米兵と仲睦まじくしている。

この戦争がもたらした複雑な運命というか現実を知ってしまい頭がごちゃごちゃになった僕はさらに眠れなくなっていった。夢と現実の区別がつかなくなっていった末に、ついにみてはいけないものを目にしてしまった。

それは軍服を着た人の姿だった。後で聞いたところによると多くの人がその姿をみるらしい。水を探して彷徨っているらしく、ずっと部屋の前に水が入ったペットボトルが置かれているのが気になっていたが、これは英霊が水を探して宿舎に入ってきて部屋の前でとまってもらうためだった。着任時に島に残っている砲弾や石を持って帰らないようにと念を押されたのも一緒に本土に連れて帰ってしまうからだそうだ。参加者の多くも本土に帰った後は、魂がついてきてしまった時のために靖国神社へお参りにいく。僕は霊をみてしまった次の日、摺鉢山の頂上へ上り、この島で亡くなった全ての人に手を合わせた。

20日間の硫黄島での生活が終わり、松さんとも別れの時が来た。きっと来年も松さんは硫黄島の地下壕のなかで亡き父とお酒を酌み交わすのだろう。

自衛隊輸送機の羽の写真

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