そんなシゲさんの予感が当たったのである。

バイク便のアルバイトを始めて、そろそろ半年が過ぎようとしていた。

その日は朝から雨が降っていた。

病院の真っ白な天井

病院の天井の写真

朝の眠りから目覚めるように、静かに意識が戻った。

心配そうな中年女性の顔が、真っ白な天井からぶら下がるように目前に迫っていた。ぼんやりした視界が少しずつ鮮明になると、女性の周囲に何人かの男性がいて、私を覗き込むように囲んでいるのが分かった。

この人たちは一体誰なのだろう。まったく名前が思い浮かばなかった。みな顔見知りであることは理解しているのだが、肝心の名前が出てこない。

布団の下で右手を動かそうとしたが、なぜだか動かすことができない。そもそも両腕の感覚がないのである。何かにきつく縛り付けられているようにも感じる。喋ろうとしても喉が渇いて声が出ない。眼玉だけが自由に動かせて、キョロキョロと周りを見ることができる。まるで金縛りにあったような感覚に似ていた。

俺は一体全体どうなってしまったのだ。ここはどこだ。見たことない部屋で、自分の家ではなさそうだ。周りにいる人たちは誰なのか。なぜに俺はここにいるのだ。そもそも今日はいつなのか。時間も日にちも何も分からない。

あの日は、濃い霧がかかったような頭の中で、ただ自問自答を繰り返していた。

バイクが大好きだった青春時代

本棚の写真

いつから、バイクが好きになったのか。好きになったきっかけを今ではあまり覚えていない。

たぶん、当時流行っていたバイク漫画の影響は大きかったように思う。中学生の頃から「750(ナナハン)ライダー」「あいつとララバイ」「バリバリ伝説」「キリン」などの単行本を夢中になって読んでいた。

千葉県で過ごした高校時代は、学校でバイクの免許を取ることが禁止されていた。日本の法律では16歳以上になれば二輪車の免許が取れるのに、なぜ校則で禁止されるのかと先生に噛みついたこともあった。先生はバイクが不良の乗るものだと決めつけていた。当時は、二輪車どころか原付免許も取ることができなかった。

それでも例外があり、自宅がそば屋の親友は出前を手伝うという理由で特別に免許を取ることが許可されていた。それで出前用「おかもち」がついたホンダスーパーカブを自慢げに乗り回す姿が、本当にうらやましかった。

ある日、隠れて空き地で乗せてもらったのが、生まれて初めてバイクに乗った経験である。恐る恐るカブにまたがり、ギアをニュートラルのままでアクセルをふかしてみた。

排気量50㏄の小さなエンジンでも、4スト特有の太い音が響いた。
「慎重にアクセルあけろよ、急にやるとやばいぜ」
親友が心配そうに注意した。
左足でガチャっとギアを1速に入れて、そっとアクセルをひねってみる。

まるで風のようにふわりと前に進んだ。
自転車のように自分の力を使わずに、グングンと空き地を走っていく。
その時の感動が、私の胸に深く刻み込まれていた。

スーパーカブのおかもちの写真

神奈川にある大学に受かったので、高校卒業と同時に横浜での下宿暮らしが始まった。引越しの翌日、待ち焦がれていた原付免許をすぐに取得した。実家が裕福ではないので、大学に通いながらアルバイトをしなければならなかった。私はもちろん原付バイクに乗れる仕事を探した。すぐに近所の新聞販売店での朝刊配達のアルバイトが決まった。当面、400㏄まで乗れる中型自動二輪免許を取ることが次の目標となった。

新聞配達で懸命に貯金をして一年後の春休み、ようやく教習所に通って念願の中型自動二輪免許を取った。しかし免許を取ったものの、中型バイクは一人暮らしの貧乏大学生にはとても買えなかった。250㏄の中古バイクでさえ簡単に手が届く値段ではない。相変わらず、新聞配達用のスーパーカブを乗り回すだけの日々だった。

そんなある日、たまたまアルバイト求人雑誌を見ていて、「バイク便」の募集に目が留まった。待遇欄に「貸出バイクあり」と書いてある。「これだ!」と思った。この仕事なら自分で中型バイクを買わなくても、好きなだけ乗ることができるのではないか。

GPZ400のシゲさんとの出会い

バイクの後ろ姿の写真

私はすぐに下宿近くの公衆電話から面接希望の連絡をした。感じの良い女性の人から、履歴書と運転免許証、それに自分のヘルメットを持参してバイクに乗れる恰好で面接に来て欲しいと言われた。

そのバイク便の会社は、横浜の桜木町駅の近くだった。電話で教えてもらった通りに、駅から10分ほど裏通りを歩いて行くと、壁に芸術的な落書きが描かれている雑居ビルに着いた。1階が駐車場になっていて、250㏄から400㏄のバイクが10台ほど整然と並べられている。あまり見慣れない会社マークが描かれたジュラルミン製の箱が、すべてバイクのタンデムシートに取り付けられていた。

「思ったよりデカい箱なんだな」というのが私の第一印象だった。その頃は街中でも、似たような箱を後ろに積んだバイク便をかなり普通に見掛けるようになっていた。

2階の事務所で履歴書を提出すると、すぐに簡単な面接が始まった。30歳半ばくらいの穏やかな男性の名刺には専務と書かれていた。特に問題なく面接が終わると、今日はそのまま入社試験をするからライダーの待機室で待つように言われた。

事務所を出て階段の横にある部屋が、ライダーの待機室となっていた。8畳ほどの古い畳の上に、黒い革製のソファーが3つ無造作に置いてある。中に入るとタバコの煙で部屋全体が真っ白にかすんでいた。壁紙はタバコのヤニで茶色に汚れている。当時は私もタバコを吸っていたので、何とも思わなかったが、今の時代では考えられないことかもしれない。

3人の待機中のライダーが、それぞれ自由気ままにソファーに座ったり、畳に寝転んだりして週刊誌などを読んでいた。私が中に入って遠慮がちに挨拶すると、皆が人の良さそうな笑顔で応えてくれて少し安心した。壁には大きなホワイトボードが掛かっていて、ライダーの名前、出発時間、行先、帰社予定などの欄があった。おそらく、仕事が入ったらここに自分で記入して出掛けるのだろう。

新宿の写真

「おーい、シゲさん、新人きたよ。トレーニング頼んでいいかな」
先ほどの専務の声が、事務所から聞こえてきた。
「はいよ。今度はつかえそうな奴かい?」
「中免はとったばかりで、自分のバイクは持ってないらしい。でも1年間くらいカブで新聞配達やってたらしいから、たぶん大丈夫じゃないかな」

5分くらい待っていると待機室のドアが開いて、無精ひげのある年齢がすぐに分からない人が、ヌッと顔を出した。
「おい、新人くん、行くぞ!」
と私の顔をみてニヤリと笑いながら言った。

私はヘルメットとグローブを手に、その人の後を慌てて追いかけた。シゲさんと呼ばれる、その人はひょろりと背が高く、猫背で少しだけ右脚をひきずるように歩いていた。相当に使いこなした黒い革製のライダーパンツをはいている。

「今日は、トレーニングコースを一緒に走るから、俺の後をしっかりついてこいよ。三ツ沢まで行って第三京浜で東京に向かう。そのまま目黒通りを走って都内中心まで行く。帰りは羽田から高速の横羽線を使って横浜に戻ってくるコースだから」

横浜周辺の地理に明るくなかったので、正直に言うとシゲさんが説明したコースが良く理解できなかった。それより慣れない中型バイクで東京まで行くのは、結構大変ではないかと内心不安に思った。そんな不安な表情に気づいたシゲさんは、
「大丈夫だよ。今日はゆっくり走っていくから」
と言ってくれた。
「ただし、今日走ったコースは出来るだけ覚えてくれよ。明日以降に今度は自分一人でそこを回ってくる。それができたら合格だから」

「今日はとりあえずこの社有バイクを使えよ」と大きな番号札の付いた鍵を渡された。赤と白のツートーンカラーのホンダCBX400Fだった。私が高校時代に憧れていたバイクである。その後継としてCBR400Fなどが出ていたので、少し古い型となっていたが、CBXを仕事で使えるというのはとても嬉しかった。それに教習所でもこのバイクだったので、取り扱いが慣れているのも安心した。

シゲさんはカワサキのGPZ400という中型としては車体が大きめの自分のバイクに乗っていた。
「コイツはちょっと重くて、本当はこういう仕事向きではないんだけど、俺カワサキ党でさ。ずっとカワサキで浮気したことないよ」
シゲさんは鮮やかなグリーンのタンクを優しく撫でながら笑った。

入社試験が始まると、私はすぐに面食らった。
「これで本当にゆっくり走ってるの? 実は意地悪な人なのかな?」
と、始めは正直思った。シゲさんの後ろを追っていくのは、ものすごく大変だったのだ。中型バイクとしては大柄なGPZを軽々と操り、車の間をスイスイとまるで川の中の魚のように走って行く。どうみても通り抜けるのは無理なんじゃないかという車の隙間でも、一瞬のためらいもなくスッと入って抜けていく。

私は必死について行こうとするが、すぐに引き離されてしまう。シゲさんは実によくミラーを見ていて、遅れている私にすぐに気づいてスピードを落として待っていてくれる。でも私が追い付くとまたスイスイと車の間を縫うように走るのだ。

しばらくシゲさんの後ろを走っているうちに、不思議なことに気づいていた。一見、乱暴な運転なのに少しも危険な感じがしないことだ。まるで予知能力があるかのように先を行く車の動きに合わせて絶妙なタイミングでバイクの位置や速度を調整して、鮮やかに追い抜いていく。

シゲさんが突然速度を落とすと、その前方の車が車線変更する。それまで左側をすり抜けていたのに、なぜか右側に移るとその車が急に左折するのである。そして加速も減速も実に滑らかで、そのメリハリのある運転技術は見事のひと言だった。

信号待ちなどでは、停車している車の前まで出るのだが、ドライバーに対して必ず小さく手をあげてお礼を忘れない。そんなさり気ないマナーがすごくかっこいい。本当に上手い街乗りライダーとはこういう人のことを言うのだろうと思えた。第三京浜をあきらかにスピード違反の速度で走るのは焦ったが、実際このように走らないと仕事にならないのだろう。私も無我夢中で追いかけるしかなかった。

第三京浜を降りるとシゲさんは手で合図をして環八沿いのコンビニに入った。私が苦手な甘い缶コーヒーを勝手に買うと、差し出しながら言った。
「中免取ったばかりで自分のバイクも持ってないって聞いたけど」
「はい、新聞配達でカブには毎日乗ってましたけど、デカいのに乗るのは教習所以来です」
「それは、驚いたな。確かにまだまだ危なっかしくて教えなくちゃならないことが多いけど、バイク乗りのセンスはあるかな」
意外にもシゲさんに褒められたことが妙に嬉しかった。

帰りの首都高速横羽線では、シゲさんは私に前を走らせて、後ろをピタリと付いてきた。恐らく私の走り方をチェックしていたのだろう。シゲさんが後ろを走ってくれるのは、不思議と安心感があった。私はいつしか緊張がほぐれて入社試験であることも忘れ、大好きなCBXの走りを心から楽しんでいた。

缶コーヒーとタバコの写真

バイク便のバイトが楽しくて仕方なかった

ほどなく、私は正式にアルバイト採用が決まって、毎日のように大学が終わるとそのまま桜木町の事務所に直行した。とにかく毎日バイクに乗りたかったので、ほぼ皆勤である。その当時、バイク便にはスポットと言われる、電話で依頼の入る単発の仕事と、会社などと契約している定期便というのがあった。新人はまずスポットの仕事から始めるのだが、走行距離による完全出来高制なので、仕事がなければお金は貰えない。待機室で半日待っていても仕事にありつけない日もあった。そんな日は単純にバイクに乗れなかったことが残念だった。

何人かで待機している場合は、基本的には待ちの順番で仕事が回ってくるのだが、長時間待った挙句に近所で距離のないハズレ仕事が当たってガッカリすることもある。とにかく人気があるのは高速道路を使用できる長距離便だ。運転も楽だし距離が稼げるので一本当たると大きいのだ。

その会社で一番のベテランのシゲさんは、皆が憧れる長距離ルートの定期便のライダーだった。その定期便は毎日午前中に長距離の決められたコースを走る。そのうえ自分のバイクを持ち込んでいるので手当も加算されて、相当稼いでいるとの噂だった。そんな訳でシゲさんが待機室にいることはあまりなく、普段は会うことが出来なかった。

それでもたまにバッタリと出会うと、会社近くの古いラーメン屋によく誘ってくれた。そんな時、シゲさんはいつも好物の餃子とサンマーメンを食べながら、私にバイクで街中を安全かつ早く走れるコツを熱くレクチャーしてくれた。

ラーメン屋の写真

「走りながら、前の車だけでなく、さらに前方の車まで見ておく。できれば、車内のドライバーの動きにまで気をつけるんだ。例えば、右のドアミラー方向にわずかに顔が向いたら、おそらく右に車線変更するだろうと予測するんだ」

「一般道で渋滞している左側をすり抜ける時、不自然に車間が空いていたなら要注意。対向車が右折してくるかもしれないし、歩行者が渡ってくることあるから」

「大型トラックの脇を走る時は、相手のミラーの死角に入らないように気をつける」

教習所では教えてくれない街中での実戦的なコツを教えてくれた。

「あと、 飛ばす時は白バイには気をつけろよ。俺はしょっちゅうミラーで後ろを確認するんだけど、奴らはその死角に入って追尾するのが上手いから」

シゲさんから大きな声では言えない悪いことの対処法まで教わって、私はすっかりシゲさんを師匠と仰ぐ弟子みたいになっていた。

後で専務から聞いた話では、シゲさんと専務は高校時代の同級生だったらしい。シゲさんは20代の頃は競馬新聞の「プレスライダー」をしていて、その世界ではかなり有名なライダーだったという。プレスライダーというのは、写真フィルムや記事原稿などを現場から新聞社などに運ぶ職業ライダーのことである。今のようにインターネットなどなかった時代には、そうやって現物を迅速に運ぶ手段はバイクしかなかったのだ。当時は数々の伝説の配送時間の記録を作ったそうだが、ある時、首都高速で大事故を起こして右脚を複雑骨折してしまったのだという。それでプレスライダーを諦めたのである。

「とにかく事故にだけは気をつけろよ。俺も大事故をやっちまって、右脚はいまだにちゃんと動かないんだよ」
「この仕事、慣れてきた頃が一番危ないんだ。今までそれで何人もが事故を起こしている。とくにバイクのセンスがある奴ほど、でかい事故をやって危険なんだ」
ラーメンを食べ終えてタバコを吸いながら、シゲさんは私を諭すよう何度もそう言った。

雨の高速道路

雨の水たまりの写真

そんなシゲさんの予感が当たったのである。
バイク便のアルバイトを始めて、そろそろ半年が過ぎようとしていた。

その日は朝から雨が降っていた。

バイク乗りにとって何が嫌かと聞かれたらほとんどの人が「雨」と答えるのではないだろうか。遊びでバイクに乗っているのなら、わざわざ雨の中を走ることはないのだろうが、バイク便ではそうは言っていられない。たとえどんな大雨でもレインウエアを着て走るのだ。私は仕事の時間帯で夜間走ることも多かった。夜の雨というのは、バイクにとってもっとも危険な組み合わせとなる。

その日の午後、私は新横浜から茨城県のつくば市までの珍しい長距離の仕事が当たった。普段なら高速道路を使用できる長距離スポットはとても美味しい仕事なのだが、雨が降っていたのであまり気が進まない仕事だった。つくば市内の銀行にATM修理用の基板を届ける任務だった。

季節は晩秋だったので、夕方の5時を過ぎるとすっかり暗くなっていた。無事に荷物を届け終わり、アスファルトを雨が激しく打つ常磐自動車道を比較的ゆっくりと走っていた。ヘルメットのシールドに大粒の水滴がついて、車のテールランプがキラキラ光って見えづらい。常磐自動車道は街灯が少なくてヘッドライトが頼りの道路だった。おまけに外気が冷たいのでシールドの内側が温かい息で白く曇ってくる。

緊張感の緩んだ状態で雨の中を走り続けていると、次第に眠気を感じるようになっていた。
「このままでは危ないな。どこかで休まないと」
何度も自覚してそう思ったが、とにかく早く帰りたいという思いが強かった。
もう少し、もう少しと我慢してしまったのが間違いだった。

驚くことではないが、バイクを運転していても人は寝てしまうのである。気付いた時には、ガードレールに接触して激しく転倒していた。頭に激しい衝撃を受けた瞬間、目が覚めたのである。濡れた黒いアスファルトに叩きつけられ、荷台の箱がはずれた横倒しのCBXが遠くに滑っていくのが見えた。うつ伏せに倒れた私は、なぜか痛いとか苦しいという感覚はなくすぐに意識を失っていた。

あとで警察に聞いた話では、私は単独で転倒事故を起こしたらしい。幸いにも後続車に轢かれることもなく、目撃者がすぐに救急車を呼んでくれた。偶然だが、私は実家のある柏市内の病院に搬送されていた。会社から連絡を受けた母親は病院が近くて驚いたという。

両腕の手首の骨がポッキリと折れ、肋骨も三本骨折していた。頭にも強い衝撃を受けて、ヘルメットには大きなキズが付いていた。何よりも驚いたことは、生まれて初めて記憶喪失になったことだ。本当に何も思い出せないのである。なぜ、自分は病院にいるのか。今がいつなのかも分からない。夜、一人になると味わったことのない深い不安が襲ってきた。

医師は脳に強い衝撃を受けたことによる一時的な記憶喪失なので心配ないと母には言っていたようだ。10日間ほどで徐々に記憶は戻るはずとのことだった。入院中には学校の友人や会社の同僚、もちろん専務やシゲさんもお見舞いに来てくれた。

自分の状況が分からない私に、無精髭の男性がゆっくり優しい語り口で経緯を説明してくれたのを覚えている。でもその時は、それがシゲさんだという認識もなかったのである。

病院の写真

濃い霧がだんだんと薄れるように、私は少しずつ記憶を取り戻していった。最初は誰だか分からなかった顔馴染みの中年女性が、自分の母親だったのである。医師の言った通りに一週間ほどで、頭はほぼ正常に戻った。しっかりと自分の記憶がよみがえり、私の身に何が起きたのかも思い出すことができたのである。

治療で何が痛かったかというと右手首の骨折だった。骨が大きくズレてしまっていて、これをはめ直すのに男の医師が力ずくで引っ張るのだ。なかなか折れた場所がかみ合わず、何度もやり直した。あまりの痛さにわめいて暴れようとする私を男性看護師が数人でベッドに押さえ込む。たぶん麻酔はしていなかったように思う。私は激痛で意識が薄れるのを生まれて初めて経験した。その後、骨を固定するためにバーベキュー串のような金属の棒を二本、手首の中に埋め込んだ。

「こんな危険な仕事はもう辞めてほしい」と、母親に泣きつかれたのは精神的につらかった。両手がギプスで使えないので、病院の洗面所で母親が私の頭を洗ってくれた。洗いながら、涙を流しているのが分かった。両手が使えないというのは本当に不便である。特に右手のケガがひどかったので何とか動かせる左手にスプーンを固定して食事をした。

入院中は自分の今後をいろいろ考える時間にもなった。退院してからも一時的に実家に戻り、すぐにバイクに乗れるような状態ではなかった。

でも、私はバイク便という仕事がすごく好きだったのである。

大好きなバイクに乗って、基本的には一人でやる仕事なので回りに気を遣うことも少ない。そんなことが性に合っていたようでとても気に入っていた。そして私にとって憧れの先輩となっていたシゲさんのように、かっこよく走れるようになりたいといつも思っていた。

母親を説得するのに時間は掛かったが、結論として私はバイク便を辞めなかった。治療の最後に右手首に埋められていた金属の棒を抜き取る手術をした。その後も完全に固まってしまった手首を動かすためにリハビリが続いた。結局、全治4ヶ月ほど掛かったが、何とかバイク便の職場に復帰することができた。

シゲさんは私の予想をはるかに越える反応で喜んでくれた。会社の誰もが、私はもうここには戻って来ないと思っていたらしい。自分の不注意で会社の貸し出しバイクを全損にしてしまったのに、専務は何も私に請求しなかった。

「この仕事。一度地獄を見て、それでも戻ってきた奴は心配ないよ」

シゲさんは専務にそう言ったらしい。

締切日必着の入学願書

大学の門の写真

最後にバイク便の仕事で、とてもいい思い出もあるのでぜひ紹介したい。

バイク便も単なる荷物を運ぶ運送業と言えばそれまでだが、そこに何とも言えない特別な充実感がある。バイク便で運ぶ荷物は、基本的には普通の荷物とは少し性質が違う。何しろ料金はかなり高いのだから、何かしらバイク便に頼まざるを得ない理由がある。

一番の理由は、金額は高くてもいいから、早く確実に届けて欲しいというものだ。バイク便では依頼人からライダーが直接手渡しで荷物を受け、それを今か今かと待っている届け先の相手に直接手渡しすることが非常に多かった。このように直接やり取りするので、使命感、責任感が格段に違うように感じるのである。

あれは確か2月初旬のとても寒い日だったと記憶している。

小田原での仕事が終わって公園で一服していると、会社から貸与されていたポケットベルが鳴った。当時、携帯電話などはまだ一般には普及していない時代である。すぐに近くの電話ボックスから会社に電話を入れた。

「そこからすぐに平塚に向かってくれるか。時間勝負の仕事が入った!」
いつもと違う緊迫した声で、専務から次の仕事の指示があった。何でも、大学の入学願書の締切日における提出方法を勘違いして「当日消印有効」だと思っていたものが、じつは「締切日必着」だったらしい。それで締切日の本日17時までに、埼玉にある大学の事務所に入学願書を届けなければならないという個人の依頼だった。

今のようにグーグルマップやナビなどないので、すべて地図帳を広げて住所で探さなくてはならない。平塚市内で依頼人の個人宅を探している時間もないので、とりあえず平塚駅の南口で待ち合わせて荷物を受け取ることになっていた。

小田原から平塚なら西湘バイパスを飛ばせば15分くらいで行ける。心配そうに駅前ロータリーで待っている女子高生とその母親を一目で見つけた。すぐに入学願書の入った封筒を受け取り、大学のある場所が書かれた地図のコピーを貰った。

電車で行ける場所の場合、特に夕方の渋滞する時間帯ではバイクよりも早いこともある。念のためにそのことを母親に聞いてみたが、大学が駅から遠いので今から電車で行っても絶対に間に合わないと断言した。

「何とか、間に合わせて下さい。お願いします」
女子高生とその母親は、私を拝むように手を合わせて頭を下げた。
「正直に言って、時間内に着けるかどうかの約束はできないけど、でも可能な限り頑張ってみるよ」
今にも泣きだしそうな女子高生に向ってそう言うと、私はバイクに飛び乗っていた。

茅ヶ崎から新湘南バイパスに乗り、横浜新道と首都高速を飛ばして埼玉県に向かった。案の定、夕方だったので道路はすべてひどく渋滞していた。気持ちはとても焦っていたが、一方で冷静な自分がいた。どんなことがあっても絶対にまた事故を起こしてはならない。ラーメン屋でシゲさんから何度も受けたアドバイスが自然と頭に浮かんでくる。車の動きを正確に予測しながら、安全かつ最大限のスピードで東京を走り抜けた。

「あの娘の人生を、このバイクが運んでいる」
大袈裟ではなく、そう思えた。

幸い、その大学のある場所は、近くの精密機械工場に何度か荷物を運んだことがあった。それで走りやすい道順などの勝手が分かっていて助かった。全く初めての土地だったら、正直言って無理だったと思う。

結果としてギリギリセーフの5分前に、入学願書を大学の窓口に提出することができた。私は手渡した女性の事務員さんに
「これでちゃんと受理されましたよね」
と念を押した。
「はい大丈夫ですよ。でもバイク便で届けられたのは初めてです」
と少し驚いた表情だった。
私は事務所の電話を借りると、すぐに会社に間に合ったと報告した。

一番星の写真

なぜか、会社の電話にシゲさんが出てくれた。
「よくやったな!正直言って、あの時間では無理だと思っていたよ。本当によくやった!」
電話の向こうでスタッフのみんなが大きな歓声を上げていた。

私は疲れ切っていて、そのまま大学のキャンパスにあるベンチに寝転んでタバコを吸った。すっかり暗くなった夜空に一番星が輝いていたのを今でもよく覚えている。女子高生と母親が喜んでいる姿を勝手に想像していた。

ああ、バイク便をやっていて本当に良かったなと思えた瞬間だった。

gpz400の写真

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