少しの沈黙の後、社長は静かに口を開いた。
「……お前さ、この仕事舐めてるんだろ?」
図星を突かれた、と思った。
「お前さ、返事もできねぇのか?」
社長の怒声が怖くて、僕は声を出すこともできなかった。先ほどまで僕が握りしめていたホースは地面に倒れて、じょろじょろと水を流し続けている。
土と水が混ざり、どろどろになっていくのを目の端で捉えていると、重機から降りた社長が僕のもとへ近づいてくる。ホースを踏みつけたせいで、一瞬だけ勢い良く水が吹き出た。
つり上がった目元と平行になるよう剃り上げられた眉毛が、ただでさえ怖い社長の風貌をより恐ろしく仕上げている。
たしかヘルメットの着用が義務付けられていたはずだけれど、社長はなにもかぶっていない。黒髪のオールバックがこれほど似合う男の人も珍しいと思う。
「返事もできねぇのかって聞いてんだよ」
「え、返事は……できます」
「聞こえねぇんだよ、舐めてんのか?」
「舐めてない……です」
「頷くんじゃなくてよ、声出せや。重機の音で全ッ部かき消されちまうんだわ」
「はい」
「あぁ?」
「っはい!!」
『どうしてこんな目に』という何百回目かの弱音を噛み殺した。
日当8,000円。
それが僕が罵声を浴びながら必死で肉体労働をして稼げるお金だった。そして、17歳の自分が手にできる、これまでで最高金額のお給料でもあった。
17歳の僕は、高校を辞めてから、解体屋でアルバイトをした。仕事ってなんだろう。生きるってなんだろう。これは、そんなありきたりでとても大切ことを学んだ、17歳の夏の話だ。
解体屋のバイト
新潟県上越市。
一応新幹線は止まるし、人口だって20万人近くいるそこそこ大きなこの街に、僕は住んでいた。上越市は最近できたスターバックスには行列ができるし、休みの日にはJUSCOのフードコートでたむろするのが幸せだと思っている人ばかり。
退廃的な幸福を素直に受け取れる人にとっては、最高に住みやすい街だと思う。大人の遊び場は『仲町』という数百メートルの雁木通りに連なる飲み屋街だけで、そこで酔いつぶれる背広姿を見るたびに「こんな大人にはなりたくない」という思いが強くなっていった。
つまり、上越市という街は僕にとって非常に居心地が悪く、息苦しい街だった。
街だけでなく学校にも息苦しさを感じた僕は、訳あって高校を辞めた。これからどうやって生きていこうかと悩みに悩んでいたとき、友人の父親であるヒデさんから「土木作業員」として小遣い稼ぎをしないか、と勧められた。それは僕が最も就きたくないと思っていた職業だったから、通常であれば断るはずだった。それなのに僕はヒデさんの話に乗って「土木作業員」として働くことを選んだのは、単なる出来心だったのかもしれない。もしかすると、高校を辞めてしまったというバツの悪さをごまかしたくて、あえて苦手な道を歩もうと思ったのかもしれない。
土木作業員として就業する、という話はトントン拍子で進み、日当8,000円で送迎付きという条件を半ば無理やり飲まされた僕は、気づけば白塗りのセルシオの後部座席で朝日に目を細めていた。着慣れていない真っ白なツナギがごわごわとして、肌になじまない。
セルシオで送迎してくれたお兄さんは、ガタイの良い身体と鋭い眼光が特徴的なモンカワさんという方だった。話を聞くと、彼もまた足場職人として働いているらしく、仕事は大嫌いだが金は大好きだから、この仕事をやっているのだとタバコを吹かしながら教えてくれた。
僕はモンカワさんの柔らかい口調が好きだったけれど、きっとそれはヒデさんが口添えをしていたからだと気づいていた。彼のように男社会で生きている人から見れば、僕のようなひ弱な男は歯牙にもかけないほど矮小な存在に見えているはずだからだ。そんな年下のひよっこに対しても丁寧に接しているモンカワさんやヒデさんを見て、僕は生まれて初めて自分が「金」として見られているのだという感覚を覚えた。そして、金はどんな屈強な男性すらも屈服させてしまうほどに強いのだと思い知った。
ほどなくして、車は僕が配属される解体屋の前に駐車された。モンカワさんと解体屋の社長が二言、三言会話を交わすと、早速社長が僕のもとへ来た。
「今日からなんだな、お前。こういう仕事の経験は?」
「ありません」
「……」
無言で僕の装備を眺める社長。つま先から足、腕ときて僕の目を見た時、すでに社長は落胆していた。まっさらなツナギが恥ずかしい。『こんなド素人よこしやがって、舐めてんのか』と顔に書いてあるようだったけれど、それは僕にはどうしようもないことだ。とにかくやる気だけでも見せなくちゃ、と思い、僕はなんとなく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「おう」
目も向けず、社長は事務所の中へと引っ込んでいった。数分待つと、従業員の方がぞろぞろとトラックへ向かって出てくるのが見えたので、なんとなくその列に加わる。正直、どこからどうみてもヤクザの集団だった。
モジャさんと午前の現場
「おいモジャ、お前の現場に後ろのやつ連れてけ」
「うっす」
列の先頭を歩いていた社長と従業員の一人がそんなやり取りを交わしたところで、列がばらばらになった。みんな自分のトラックに工具を放り込んでから、運転席へ乗り込んでいく。
「今日は俺とペアだ、よろしくな」
「小野澤といいます、よろしくお願いします」
「おう、俺はモジャって呼ばれてる。モジャでいいぞ」
「はい、モジャさん」
「んじゃ、行こうか」
モジャさんは長身で、その名の通り髭がもじゃもじゃに生えていた。目は丸くて、つぶらで、どことなく小動物感があったけれど、歩き方や声はどうみても元ヤンの空気を醸し出していて、僕はビクビクしながら助手席に乗り込んだ。そのまま現場に向かう…と思いきや、モジャさんはコンビニに車を止めた。駐車場の奥の方に、隠れるように駐車する。
「モジャさん、仕事は?」
「あぁ、どうせすぐ終わる現場だから、暇潰すんだよ。好きにしてていいぞ」
「え、はぁ……」
なんとなく車を降りて、コンビニに入る。時刻は午前8時を少し回ったあたりで、出社途中のサラリーマンで賑わっていた。コーヒーを買って車に戻ると、モジャさんは足をハンドルの上に投げ出して眠っていた。
「モジャさん、何時頃までここにいる予定ですか?」
「んー、てきとー」
本当に適当な返事に圧倒されてしまう。正社員ってこんなに適当なのか?でも、あまり話しかけたらぶん殴られそうな雰囲気だったので、僕はおとなしく雑誌を立ち読みすることにした。ここからならトラックの運転席もよく見えるから、モジャさんが起きたときにすぐ戻れる。
ちらちらと様子を見ながらジャンプを読み進めていると、一冊読み終わってしまった。モジャさんは依然として眠っていたので、僕はマガジンに手を伸ばした。マガジンを半分くらい読んだところで、モジャさんの身体が起きてくるのが見えた。僕は慌ててマガジンを棚に戻してトラックへ戻る。
「行くぞ」
「はい」
モジャさんはコンビニから数分のところにある空き地近くへ車を止めると、ヘルメットをかぶるように指示を出した。本当は車内でもかぶっていなくちゃいけないらしいけど、もちろんモジャさんはそんなものかぶっていない。
車から降りて現場を見渡すと、なにもない、土で出来た空き地が広がっていた。すでに解体の終わった地面をならすだけの仕事だったので、ほんの数時間で片付いてしまった。
モジャさんの適当さと現場の楽さを目の当たりにして、僕は少しだけ気が軽くなっていた。想像しているよりも気楽な仕事なんじゃないかと思った。そんな僕の甘い期待は、午後の現場できれいに打ち砕かれることになる。
何もできない自分
お昼ごはんを食べて、モジャさんと次の現場へ向かう。車を走らせながら、モジャさんはため息を沢山吐いていた。
「次の現場はなぁ、社長がいるんだよ……サボれねぇ……」
はぁ、とため息を吐くたびに、どんどん僕も気が重くなっていった。社長。朝見た限りでは、どうみても怖いおじさんだった。でも僕からすればモジャさんも十分に怖い……ケンカだってめちゃくちゃ強そうだし。でも、そんなモジャさんが恐れているということは、社長はそれ以上に強くて恐ろしい存在ということだ。戦々恐々としながら助手席でモジャさんの愚痴に相槌を打っていると、次の現場に到着してしまった。すでにトラックが数台止まっている。大きな日本家屋を重機で解体している最中だった。
トラックから降りてモジャさんと一緒に現場へ向かう。重機の運転席に目を向けると、鬼気迫る表情で操作をしている社長が目に入った。
怖い。怖すぎる。
建物を壊すだけの仕事のはずなのに、なんでこの人はこんなに怒っているんだろう、と疑問に思うほど、社長がブチ切れているのが伝わってきた。
モジャさんもふざけたことは言わず、自分の持ち場に進んでいく。僕は何をすればよいのかわからず、そこで突っ立っていることしかできなかった。てっきりモジャさんがなにか指示をくれるのかと思ったけれど、そうではなかったらしい。沖で浮き輪を無くしたような不安を抱きながら、僕はせめて気づいてもらえるように他の従業員さんの近くでうろうろしてみた。
誰も、何も言葉を掛けてくれない。
目の端に僕を捉えても、黙々と自分の仕事を進めてしまう。でも、声を掛けようにも言葉がでない。手を止めさせてしまう申し訳無さと恐怖がさらに僕の足を重くした。
そんなとき、モジャさんがタタタッと駆け寄ってくるのが見えた。
「ほら、このホースで水撒いて。重機で壊してるところめがけて、まんべんなく振りかけるようにね」
「あ、はい、ありがとうございます」
モジャさんから手渡されたホースで水を撒いていると、重機に乗った社長と目が合った。社長は何かを叫んでいる。聞き取れなくて、僕は重機に近づこうと瓦礫の山に踏み出した。
その時、足に激痛が走った。
足元をみてみると、廃材から飛び出たサビだらけの釘が上に伸びている。釘を思いきり踏んづけてしまったらしく、足の裏がジンジンと痛む。でも、社長が怖すぎてそれどころではない。僕は釘まみれの廃材の上に足を置いて、重機の近くまでよろよろと近づいていく。途中、5回ほど足の裏に激痛が走ったけど、歯を食いしばって我慢した。
「なんでしょうか?」
「あぁ?」
おかしい。呼ばれたから近づいたのに、いきなりブチ切れられてしまった。
「すみません、よく聞こえなくて」
「お前なんて言ってんのかわかんねぇんだよ!」
「す、すみません!」
「テメェまじでぶっ飛ばされてぇのか?」
ぶんぶん、と首を横に振る。
社長は僕を睨みつけたまま「ちゃっちゃと水撒け、一箇所じゃなくて全体にだよ」と吐き捨てて操作に戻った。僕も慌ててホースのもとに戻る。また釘が刺さったけれど、それどころじゃなかった。
そうして水を撒いていると、社長がまた何かを叫んでいる。唇の動きからして「全体に撒けって言ってんだろ」と叫んでいるようだった。全体に撒いているはずなのだが、僕の水の撒き方は絶望的に下手らしい。どうすればいいのか分からない。僕は頷いて『わかりました』という意思表示をしようと思い、なるべく大きく首を縦に振った。すると、とうとう堪忍袋の緒が切れた社長が重機から降りて僕のところへ向かってきた。
僕の小さなプライドはぶっ壊された
「返事もできねぇのかって聞いてんだよ」
「え、返事は……できます」
「聞こえねぇんだよ、舐めてんのか?」
「舐めてない……です」
「頷くんじゃなくてよ、声出せや。重機の音で全ッ部かき消されちまうんだわ」
「はい」
「あぁ?」
「っはい!!」
少しの沈黙の後、社長は静かに口を開いた。
「……お前さ、この仕事舐めてるんだろ?」
図星を突かれた、と思った。
正直、肉体労働なんてかったるいし、僕がやる仕事じゃないと思っていた。モジャさんも、社長も、モンカワさんも、ヒデさんも、他の従業員も含めて、僕はみんなを見下していた。勉強しなかったからこうなった。他に技能がないからこんな仕事をしているんだと、軽蔑していた。僕はこの街に住むすべての人を、見下して生きていた。
「舐めてはいません、でもやったことがなくて」
「うるせぇ、目で分かるんだよ、半端なガキがいっちょまえな口叩くんじゃねぇ」
大人の男の人に凄まれるだけで、僕は声が震えてしまう。幼いころにDVを受けていたせいかもしれないけれど、大人の男が怖くて仕方なかった。そんな僕が、目と鼻の先で怒気を発している恐ろしい社長に対して言い訳ができるはずもなかった。
「誰もこんな仕事したくねぇのかもな。でもな、誰かがやる。だから新しい家が建つ」
社長は壊しかけの家屋を振り返って、続けた。
「俺らは所詮バカばっかだから、建築のことなんてよく知らねぇ。身体使って、そこそこ頭使って効率的に壊して、きれいさっぱり土に戻すのが仕事だ」
「……はい」
「お前みたいなガキからすればつまらねぇ仕事かもしれないけどな、こうやって金をもらってんだ、俺らは。お前はその仕事すらまともに出来ない。自分から仕事をもらうことも出来ない。ただ縮こまってる、ただのガキだ。見下すのは勝手だけどな、あんま舐めてると本気で殺すぞ」
僕は何も返す言葉がなくて、うつむいてしまう。社長の言っていることはすべて本当のことだった。僕はすべてを見下しているようで、その実、この街で満足に生きていけない自分を惨めに思いたくなくて、相手を勝手に見くびっているだけだった。休日にスタバに並んでも、フードコートでご飯を食べてもいい。仲町で酔いつぶれたっていい。それでも幸せになれるのなら、それでいいに決まっている。
僕は自分が幸せじゃない理由を、この街のせいにしてきただけだった。
自分が使い物にならない理由を、この仕事のせいにしてきただけだった。
そう気づいた時、もうちっぽけなプライドは存在しなかった。必死で、がむしゃらに、水を撒いた。社長の怒声にも大きな声で答えた。ぶん殴られてもいい。もう、関係ない。
怒鳴り返すような声量で「すみません!」と叫びながら、僕は一心不乱に水を撒きまくった。それから、残っている家屋の中からドアや窓を運び出す仕事を言い渡されて、重い廃材を無心で運び続けた。指がちぎれるんじゃないかと思ったけれど、一度も手を止めなかった。
この街が少し愛おしく思えた
気がつくと、社長や他の従業員はみんな仕事を終えて帰宅の準備を始めていた。僕は来たときと同様にモジャさんのトラックに乗り込み、汗だくの身体を硬い助手席の椅子に沈めた。
「なんか、ちょっとだけイキイキと仕事してたねぇ」
「え、そうですか?」
「うん。午前中は小生意気なガキだなぁと思ってたけど、さっきはちゃんと仕事してるなぁって思ったもん」
さらっと恐ろしいことをいう。
「グラセフみたいにさぁ、あの人混みに突っ込みてぇよなぁ」なんてつぶやくモジャさんと笑い合いながら、僕らはクタクタの身体で会社へ車を走らせた。
まっさらだったツナギが少し汚れて、ところどころに汚れが付着している。会社へ戻り、トラックをもとの場所に戻して、僕はモジャさんと解散した。社長や他の従業員さんに「お疲れ様でした」と声をかけながらしばらく会社の駐車場で待っていると、白塗りのセルシオが見えた。
「おつかれ。帰ろうか」
「お願いします」
モンカワさんの車に乗り込むと、タバコと芳香剤の香りが鼻腔をくすぐった。
「どうだった、初仕事は?」
「もうめちゃくちゃきついです。社長は怖いし、声が出ませんでした」
モンカワさんは大きく笑って、「あそこの社長はマジで怖いよなぁ……」とこぼした。
「でも、少しだけ働くってことが何なのかわかった気がしました」
「へぇ、この仕事やってそんなこという子は初めてだよ」
「そうなんですか?」
モンカワさんはタバコに火を着けて、ゆっくりと吐き出しながら続けた。
「あぁ、みんな金のためだけにやってるからな。対して面白くもないし、キツイだけだろ?」
「そうなんですけど、なんていうか、俺ってほんとにただのガキなんだなぁってことがよくわかったんです」
「……」
「それで、社長にしこたま怒られて、このままじゃダメなんだなって、痛感しました」
「そっか。いい経験になったんだな」
「はい」
モンカワさんは僕の家の前にセルシオを止めると「また明日」と残して走り去っていった。これから仲町へ飲みに行くのだろうか。本当に少しだけ、仲町で飲む自分を想像して、悪くないな、なんて思った。
僕は毎晩小説を書いた
それから数日のあいだ、僕は土木作業員としていくつかの現場を経験した。どの現場もきつくて、相変わらず足の裏には釘が刺さって痛かったし、社長の怒声もたくさん浴びることになった。そして目標にしていた10万円を稼いだところで、僕は土木作業員のアルバイトを辞めた。中古のパソコンが家に届いたのは、それから3日後のことだ。
僕はそれから毎晩、小説を書いた。
悩んでいることや自分の苦しい経験を、芸術という形で昇華する「小説家」という生き方に僕は憧れていた。だけど、なれるわけないって、どこかで諦めていた。すべてを冷めた目で見ていた僕は、いつの頃からか自分のことすら冷めた目で見ていたのだと思う。社長が僕に言った言葉の中には、きっと正しくない言葉も含まれていたのだろう。それでも、僕の甘えきった心を正すには必要な言葉だった。
無力な17歳がパソコンを手に入れて、文章という武器を扱えるようになったおかげで、僕は今、フリーランスのライターとして人生を歩めている。あの苦しい経験がなければ、僕はきっと今もまだ甘え続けていたのだろう。すべてを冷めた目で見て、見下して、蔑んで、向き合って戦うことから逃げ続けていたのだと思う。フリーランスという生き方は、すべての責任を自分で背負う生き方だ。あの頃の甘えきった自分では、きっと目指すことさえできなかった生き方だった。
土木作業員のアルバイトを辞めてから、僕は通信制の高校に入り直した。1年遅れで卒業した高校生活でも沢山の経験をしたけれど、最も印象に残っているのは卒業時に校長先生が放った一言だ。
「置かれた場所で咲きなさい」
僕はこの言葉に、ある一文を付け加えたい。
置かれた場所で咲きなさい。飽きたら、好きな場所へ旅立ちなさい。
たくさんの経験を経て、僕らは自分の花を咲かせていく。僕らの暮らす街と仕事は、きっと僕らを咲かせる水と太陽なんだと思う。
新潟県上越市という街
最後に僕の生まれ育った新潟県上越市の話をしよう。
サラダパスタ
上越市は海と山に挟まれた平野に位置する地方都市だ。日本海からは新鮮な魚介類が手に入るし、言わずと知れたお米の名産地でもある。もちろん、お肉や野菜だって負けていない。
そんな美味しいものだらけの上越市にいながら、僕の食生活は質素極まりないものだった。ある日、仕事の合間に設けられたお昼休みの1時間で、僕はコンビニへ走り、セブンイレブンの明太子サラダパスタを購入した。
近くにある公園のブランコに腰掛けて、プラスチックの蓋を優しく開ける。コンビニで貰ったフォークを右手に持って、いそいそと食べ始めた。シャキシャキのレタスや大根と、やわらかいスパゲッティが明太子のソースと絡まって、お互いの良いところを引き出し合っている。とても美味しいけれど、17歳の土木作業員が食べるにしてはあまりに可愛いチョイスだと思う。
普段の僕だったら、コンビニでサラダパスタなんて手に取らなかった。「野菜を採らなきゃ」なんて言いながらポテトチップスに手を伸ばしていただろう。あのときサラダパスタに手を伸ばした僕は、自然と自分の健康を気にしていたのだと、今になって思う。睡眠不足と過度なストレスにさらされて、身体が「せめて野菜だけでも食べろ!」と警鐘を鳴らしていたに違いない。それでも、汗だくの身体を風に預けながら見晴らしの良い公園で食べるサラダパスタは、本当に心地よく身体に染み渡っていった。
今でも時々、コンビニでサラダパスタを手に取ることがある。
風の気持ち良い日に公園でサラダパスタを食べていると、あのときの自分を思い出す。戻りたいか、と聞かれれば首を横に振るが、あの日のサラダパスタをもう一度食べたいかと言われれば、僕は頷くと思う。それほどに、あの日のサラダパスタは印象深く、社長の怒号と一緒に僕の脳裏に刻まれているのだ。
直江津の人魚姫に片思いしていた
電車で北に揺られれば日本海を見渡せる「直江津」に、南に電車で揺られれば越後山脈のお膝元「妙高」へたどり着く。僕のお気に入りは「直江津」だ。上越市に縁のある児童文学作家・小川未明が執筆した「赤い蝋燭と人魚」という話のモチーフになった場所とも言われている。やけにリアルでムーディな人魚姫の銅像があるのはそのためだ。
僕はその人魚姫の銅像が忘れられない。どことなく悲しげで、こちらを見通すような眼差しを向けて、佇んでいる。そのわびしい姿に強い共感を覚えたのだろう。この街に居場所がない僕にとって、彼女は親友であり、恋人のようなものだった。一方通行な恋心ではあったけれど。
銅像の周りに設置されているベンチに腰掛けて、近くの自動販売機から購入したカフェオレを飲みながら海を眺める時間が、僕は大好きだった。日本海から吹きすさぶ潮風を身体に浴びていると、すぐに髪の毛や肌がベタついた。砂浜を歩けば、家族や友人、恋人と散歩をしている人影が目に入る。僕とは違う世界の住人のような気がして、離れた場所をのんびりと歩いた。
一人が好きなわけじゃない。けれど、一人で居られないわけじゃないから、僕や人魚姫の銅像は一人で立っていたのだと思う。
あの寂しげな人魚姫の目に、僕や彼ら彼女らはどのように映ったのだろう。そんなことを考えると、直江津の潮風が少しだけ恋しくなるのだった。
上杉謙信の上越市
妙高にはスキー場やキャンプ場などのレジャー施設が多く存在している。もちろん、温泉だってある。平野部には「春日山」という小高い山があって、敵陣に塩を送ったことで有名な戦国武将・上杉謙信の居城としても有名だ。新潟県民、とくに上越市民にとって、上杉謙信は幼い頃から縁のあるヒーローでもある。
大河ドラマで上杉謙信役を務めたGACKTさんが、毎年8月に行われる謙信公祭で上越に訪れる際は国道に長蛇の列が出来上がるほどだ。これに関してはGACKTさんの人気によるところが大きいのかもしれないけれど。
少し山間に車を走らせれば清流だっていくつも流れている。渓流釣りやトレッキングにもうってつけだ。上越市は、アウトドアを楽しみたい方にとって非常に魅力的な街だと思う。上越市を離れて様々な街を訪れたけれど、海、山、川と三拍子揃っている街はそう多くない。もし興味を持った方がいれば、ぜひ上越市に遊びに行ってみてほしい。