「私をッ!私をッ!男にしてくださいッッ!!」

候補者は泣きながらそう叫びます。

参議院議員選挙の選挙運動期間は、17日間あります。その間、毎日これをやるのです。

「あんた、ヒマなんだから選挙のバイトしなさいよ」
「おかしいだろ。普通はやってみない? って聞くとこだ……選挙だと?」

選挙のバイトって?

選挙には、参議院選挙、衆議院選挙、県知事選挙に生徒会長選挙に市長選挙など、いろいろな種類があります。

これは私が、参議院選挙候補者のお手伝いをしたときのお話です。出口調査とか投票受付とかではありません。立候補者当人の応援バイトです。

私の親がご近所さんたちにおだてられてPTAの役員になっていたときです。PTAで支援していた人が、参議院議員に立候補するという話が持ち上がりました。

「手伝うわよね」
「やだよ、そんな全然知らない人。応援なんかする気になれん」
「そういうこと言うものじゃありません! じゃ、晩ご飯抜きにするからね」

ぐぐっ。それは痛い。若い身空で食欲旺盛な私にとって兵糧攻めはなにより痛い。しかし、私にも若者としての矜持が。

「い、嫌だ。家でごろごろしていたい」
「バイト代出すから」
「じゃあ、やる」

あったけど砕け散りました。

実家の畳の写真

そのころ私は大学生でした。インターネットは普及しておらず、スマホなんて影も形もない昭和の時代でした。

バイト代はびっくりするぐらい安かったのですが、時は春休み。大学の春休みはひと月あります。その間、実家でダラダラするつもりだった身ではそれ以上抗弁もできず、いやいや引き受けることになりました。

おそらくほとんどの人が経験したことのない選挙の応援というアルバイト。フロムエーに載ることもありません。

いったいなにをさせられるのでしょうか。その当日がやってきました。

ひたすらポスターをはがす

バイト初日は選挙が公示される前日でした。選挙事務所に足を運ぶと、バイトの人がたくさん集まっていました。男女合わせて20人ぐらいはいたでしょう。

それ以外にもボランティアのおばちゃんたちも大勢いて、スタッフと思しきおじさんたちまでいて、大賑わいな事務所でした。

こんなにたくさんの人を集めて、そんなに仕事ってあるのだろうか? そんな心配をしたぐらいです。

そして選挙参謀的な人が現れて、簡単な挨拶をしました。この人、怖かったです。顔が。

それが終わるといよいよ仕事の開始です。最初にやれと言われたのは。

「ポスターを剥がして来い」

 でした。

「はぁ?!」

と間抜けな声で答えるバイトの私たち。これから選挙だってのに、わざわざポスター剥がしてどうすんだ?

これは私だけではなく、選挙応援のバイトが初めてという人がみなそう思っていたそうです。普通、そう思いますよね。

選挙の掲示板の写真

もちろんこれには理由があります。政治家が使うポスターには『政治活動用』と『選挙活動用』とがあるのです。

政治家は、選挙のないときでも自分の選挙区にポスターを貼っています。それが『政治活動用』ポスターです。顔写真付きから名前だけを書いたものなど、いろいろな種類があります。

街を歩いていて、選挙期間でもないのに政治家がにこっと笑っている不気味な……いえステキな写真付きポスターを見たことがありますよね。

それが選挙以外のときに掲示する——つまり『政治活動用』の——ポスターです。

しかし選挙が公示された以降にそれが貼ってあると、公職選挙法違反になってしまいます。だから顔の怖い参謀さんは「剥がして来い」とバイトに指示したのでした。

なにかしら腑に落ちない気持ちを抱えたまま私たちは作業に入るのでありました。ちなみに、行動は常にふたり1組でした。

そのとき、1枚の地図が渡されました。住宅地図というもので、1件1件の住居者の名前まで分かるというものです。赤線で枠が記入してありました。

「君たちは、その赤線部分が担当だ。そのエリアからすべてのポスターを剥がして来てくれ」
「了解しました」

いまならおかのした、って言うところですが、そんなことどうでもいいですね。さっそく私は、相棒になった2つ年上の男性と一緒に出かけました。

ポスターを見つけて剥がすだけの簡単なお仕事です。

家の写真

と思っていたのですが、いきなり難題にぶつかります。

「あの、これ。剥がすんでしょうか?」
「剥がして良い……のかなぁ?」

その当時、携帯電話なんてものはありません。すぐ事務所に電話をかけて聞くということができなかったのです。その家の人に聞こうとベルを鳴らしてみましたが、音沙汰なし。留守のようです。

「これ、どうしましょうか?」
「最初の1枚から困ったなぁ」

どうして困ったのか。その家には黒塗りの門があり、その支柱に候補者の名前だけのポスターがしっかりと貼ってありました。

それをサクッと剥がそうとしたのですが。

「だめだ、どうやっても下地がでてきてしまう」
「これじゃ、ペンキ剥がしのイタズラをしたみたいになりますね」

剥がしたいのはポスターだけなのですが、下地のペンキが一緒に剥がれてしまうのです。

上から10センチメートルほど剥がしたところで、それに気づいて止めました。このまま強引に剥がせば、間違いなく支柱の金属が露出します。それはものすごく見栄えの悪い外観になるでしょう。剥がしたらその部分、きっと錆びます。

好意でポスターを貼らせていただいたお家なのに、そんなことをして貴重な支持者を失ったりしないだろうか。

そんなことはどうでもいいのですが、そのことでクレームが来たら私たちの責任にされるかも知れない。それが問題でした。

さんざん悩んだ末、見なかったことにしました。どこかの国会が得意な方策です。戦国武将的に言うところの知らぬ顔の半兵衞です。

そのあとは特に問題もなく(番犬に吠えられる程度のお約束はありましたが)、計50枚ほどのポスターを剥がして意気揚々と帰りました。そろそろお昼です。昼食です。待ちに待ったご飯です!

おにぎりと卵の写真

帰ったらうどんやおにぎりなど、昼食の用意がされていました。これは食べ放題でした。

食べ盛りの私にとって、こんなありがたいことはありません。このバイトで最大のメリットです。さあ、いただきます……と言った瞬間に。

「剥がして来いと言っただろ。例外はないんだ。すぐにもう一度行って来い!」
「はいぃぃぃっ!!」

黙っていればいいものを、相方が顔の怖い参謀さんに報告したのでした。

食べかけのうどんを横目に、私は少し泣きながら猛ダッシュしてかの家にポスターを剥がしに行きました。おかげで私のお昼ご飯は1時間遅れました。

顔の怖い参謀さんは、やはり本当に怖い人でした。顔だけじゃなかったのですね。

ひたすらポスターを貼る

いよいよ選挙が公示され、選挙活動は本格化します。

選挙期間には『選挙活動用』ポスターを貼ることができるようになります。ただし貼る場所は公設掲示板のみです。

『選挙活動用』ポスターにも、公職選挙法による細かい取り決めがあります。

掲示責任者と印刷責任者の住所と氏名が書いてあること。サイズはA3までであること、もちろん掲示期間内しか貼ってはいけません。

なにかと面倒くさいですが、これも選挙の公平性を確保するためのルールです。

バイト的には、貼る場所が限られていますのでこのポスター貼りはすぐ終わりました。楽なお仕事です。

ただしそれは私がバイトをした候補者のように、組織も資金もある場合の話です。立ち上げたばかりの弱小政党や無所属では、それさえも大変なようです。そっちのバイトじゃなくて、ほんとうに良かったです。

左手は腰に。右手は拳を突き上げて

当然ですが『選挙活動用』のポスター貼りは最初の1回だけです。しかしポスター貼り業務は毎日続きます。

それは『個人演説会用』のポスターです。本日の何時からどこどこで演説会をやりますよー、という案内用です。

これもふたり単位で行動します。私が車を持ってないもので。相方の車に同乗させてもらいました。現場近くまで行き、やや小さめのポスターを貼っていきます。

のぼりを使用することもできますので、会場近所のお宅やお店にお願いして、邪魔にならない場所に設置させてもらったこともありました。

スリッパの写真

ポスターやのぼりの設置が終わると、そのまま演説会会場へ向かいます。会場は公民館や多目的ホールなどです。そこに椅子を並べたり演台を設置したりマイクのテストを行ったり。そんな会場の準備をします。

それが終わると入り口に立って、来客に挨拶する係です。

「ご足労いただき、ありがとうございました。会場はこちらです」

みたいな心にもないことを言うわけです。きちんと言わないと怒られるのでなるべく丁寧に言います。

ただその仕事は、演説が始まるまでです。始まってしまえばもう誰も来ませんのでゆるゆるとします。

演説そのものは聞こえて来ますが、毎回同じなのでそのうち興味もなくなり、表でひたすらダラダラ過ごします。

お菓子を食べたり飲み物を飲んだり喋ったり座り込んだり。サボり放題です。

このとき初めて、時給は安いけれどそんなに悪くないバイトだなと思いました。

やがて演説が終わるころになると、候補者の言葉に涙が混じるようになります。

ああ、また始まったな、と私たちは思います。それを合図にバイトも会場の中に入ります。最後のお仕事のためです。

「私をッ!私をッ!男にしてくださいッッ!!」

候補者は泣きながらそう叫びます。聞いてる人は真顔です。ツッコめるような空気ではありません。

候補者の写真

そこですかさず顔の怖い参謀さんが、にこやかな顔を作ってマイクを持って立ち上がり、こう言いました。

「それでは皆さん。ご起立をお願いします」

舞台には、はちまきを締めたスタッフが勢揃いで並びます。

なにが始まるんです? と思ったのは最初だけで、これはいつものパフォーマンスです。

「最後にがんばろーコールを一緒にお願いします」

は? バイトも? やるのそれ? どして? なんて疑問符を数えるいとまもなく、それは始まります。

「左手は腰に。右手は拳を突き上げて」

とやり方まで指導されます。不思議なことに会場の人全員が言われた通りにしています。バイトがそれをしない訳にはいきません。恥ずかしさを堪えて言われた通りの姿勢を取ります。

会場のみなさんは慣れているようでした。戸惑っているのは私たちバイトぐらいです。

これもバイト代のうちかと、腹をくくるしかありません。

司会者「がんばろー」
会場 「がんばろー」

それを10回ぐらい繰り返して、最後は全員の拍手で終了です。

私なんかこの立候補者のこと全然知らないんですけど。でも端から見たら熱狂的支援者になってるんですけど。知り合いに見られたらめっちゃ恥ずかしいんですけど!?

いったい、誰に向けてのなんのためのかけ声や拍手なのでしょうか。それだけはいまだに分かりません。

幸いなのは、バイトがこれをするのは1日に1回だけということでした。候補者とスタッフは日に何カ所も回るのですが、会場ごとに担当バイトが違うからです。

しかし参議院議員選挙の選挙運動期間は、17日間あります。その間、毎日これをやるのです。それを日に10回以上もやっている候補者の人は、よく飽きないものだと感心しました。

毎日やり続けるとこちらも慣れてしまいます。たまに戸惑っている人を見つけると、そっと寄っていってやり方を教えてあげたりします。もうすっかり運動員きどりです。

切手貼り職人で食べていく

選挙と聞くと、誰もが真っ先に思い浮かべるものがあると思います。あのはた迷惑な選挙カーです。

立候補した側からすると、名前を覚えてもらうことが一番なので、これ以上はないというぐらい有効な手段なのです。

このお仕事にはちょっと興味があったのですが、ウグイス嬢は女性のみ、同乗者はすべてスタッフの人という構成でした。バイトの男などは用なしです。

それから選挙の仕事は、表での活動だけではありません。一軒一軒電話をかける、というのもあります。ただこれも女性だけでした。

ハガキの写真

それから切手貼り。たくさんのはがきがすでに用意されており、それに1枚1枚切手を貼って行きます。私はこれが得意でした。

切手というのは、どちらにも傾かないようにまっすぐ貼る必要があるのだそうです。気にしない人も多いのですが、まれに神経質な人がいるそうです。

例えば右に傾くと、「あなたが好きです」という意味になります。候補者からこんな手紙が来たらちょっと怖いですよね。逆に左に傾くと「私が間違っていました」。これもわりと怖いですね。

というわけで、パッと見で分からない程度にはまっすぐに貼る必要があるのです。しかしこの切手貼り。ものすごい数があります。

選挙用と表示されたハガキが山のように積んであります。後で聞いたところによりますと、全部で4万枚ぐらいあったそうです。

有料選挙葉書という切手を貼る必要のないものもあるそうですが、「1枚1枚切手を貼ることが、有権者に誠意を見せることになる」という顔の怖い人のお言葉でした。品質を保ちながらも、それでいて早く貼る必要があるわけです。

作業は次のような手順です。

・事前準備として切手シートを縦に切って細長くします
・それを右手で持ち、左手ではがきを身体の正面に置きます
・一番上の切手にだけ水を付けて、はがきの左上部に、濡らした切手を置いて人さし指で押さえ、残りの4本の指で手前に引っ張ります

そうすると、切手を1枚だけはがきに貼ることができるのです。

切手が傾かないようにするためには、このはがきを自分の右手の角度に合わせて斜めにして置くことが必要です。勘だけが頼りの世界です。

「あんた、すごい上手だわねぇ」
「ほんと、これで食べて行けるわよ」

おばちゃんたちから、そういう評価をもらいました。正確で早かったのです。ちょっと自慢でした。

ただ、切手が上手に貼れるからといって、人生になんの得もございません。

そのことを、その後の人生で痛感しました。おばちゃんの話はあてにならないなと、ひとつの人生訓です。

見事トップ当選を果たした候補者

そんなこんなの17日間。毎日休むことなくご飯を食べに……アルバイトをするために通いました。安い時給は食費で充分元を取った気がします。

そしてめでたく、その候補者さんはその地区でトップ当選を果たしたのでした。

とてもおいしいアルバイトでした。機会があったら、またぜひやりたいと思っています。誰か呼んで下さい。誰よりも上手に切手を貼ってみせます。

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