わたしは「シー」と人差し指を自分の唇の前に立てる動作で「静かにしよう」と伝えたつもりだった。

しかしわたしの動作を見たコウちゃんは、「聞けー!!」と怒鳴ったあと、大声をあげて泣き出してしまい、朝の会どころではなくなってしまった。

「あなた、この仕事向いていないわね」

19歳のわたしは何も言えなかった。

そうか、言葉を失うとはこのことを言うんだ。その意味を、身をもって知った。

保育士になりたい

おもちゃで遊んでいる幼児の画像

大学の福祉学部に入学したわたしは、夏休みに保育園で短期バイトをした。保育士さんはみんな優しくて、時に厳しくても愛があり、子どもが可愛くて楽しくて、わたしは保育士になりたいと思うようになった。

夏休みの短期バイトが終わった頃、また保育園で働きたいなと思って区役所にアルバイト登録をした。すぐに1本の電話が入った。「明日から働いてもらえませんか?」あまりのスピードで願いが叶い、自分の運の強さを自画自賛しながら、迷うことなく「お願いします!」と返事をした。大学1年生の秋だった。

しかし、保育士になりたいという将来の夢を、もう叶えられないと絶望するまでには、そう時間はかからなかった。夏休みの「可愛い、楽しい」バイト生活とはかけ離れた、厳しい現実がわたしを待っていた。

自分は「向いている」と思っていた

子ども時代、同じマンションに住む年下の子たちとよく遊んでいた記憶がある。

わたしは面倒見が良い方だった。大学に入って保育士を目指したことも、おそらく自然な選択だっただろうし、周囲も「わかるわかる」「なんか似合うね」といった反応だった。その道に進むことを疑うことなく、わたしは「保育士になる」という夢を抱いた。

近所の小さい子たちとあんなに仲が良かったのだ。どんな子ともすぐに仲良くなれると思っていたし、園庭でクタクタになるまで子どもと走り回る自分の姿を思い描いた。しかし、今度のアルバイトが始まった3日後には、その楽しい想像はいとも簡単に打ち砕かれた。

ラベンダーの写真

「コウちゃん」との出会い

私が配属されたクラスの子どもたちは、元気いっぱいでとてもパワフル。だけど担任の先生の話はしっかりと聞けて落ち着いている、というのが勤務初日の印象だった。

その中にひとり、みんなの輪に入れない子がいることに気が付いた。彼の名前はコウちゃん。コウちゃんは、集団での行動が苦手な子なんだと先生から説明を受けたが、わたしはその意味をあまり理解していなかった。だが当たり前のように、わたしがコウちゃんのそばにいることが多くなった。担任の先生はクラス全体をまとめるため、ひとりの子につきっきりというわけにはいかないからだ。

区役所からの電話で「明日から働いてほしい」と緊急で雇われた理由がわかった。大急ぎで夢が叶った背景には、現場の「人手不足問題」があったのだ。

「こんなはずじゃなかった」を積み重ねた日々

崖の上で風景を眺めている画像

コウちゃんと過ごす毎日は、うまくいかないことの連続だった。

ある日、コウちゃんは給食の時間になっても教室に入らず、何かをつぶやきながら園庭をグルグルと歩き続けていた。「お腹すいたね、お部屋に帰ろう」そう何度も声をかけるが、まるで聞いてくれない。

またある日には、先生がみんなに話をしている朝の会で、コウちゃんはひとりで喋り続けていた。わたしは「シー」と人差し指を自分の唇の前に立てる動作で「静かにしよう」と伝えたつもりだった。しかしわたしの動作を見たコウちゃんは、「聞けー!!」と怒鳴ったあと、大声をあげて泣き出してしまい、朝の会どころではなくなってしまった。

そのほかにも、お友だちを叩いたり蹴ったりしてしまうことがあり、止めに入るわたしも一緒に蹴られてしまい、担任の先生が見かねて間に入ってくれることが多くなっていった。担任の先生が来ると彼はどういうわけか落ち着くのだった。それが不思議だった。

別の日には、もう給食の時間なのにいつまでも園庭にいるわたしたち2人のところへ担任の先生が来て、「教室の子たちを見てて」とわたしに言って交代し、ものの数分でその子を引き連れて教室に帰ってくることが何度もあった。そんなことを重ねるごとに「自分はダメだ」と言われている気分だった。自己否定が徐々に積み重なり、「すみません」と小さく謝ることしかできなかった。

子どもと仲良くなれると思っていたのに。アルバイトをすればもっと保育士になりたくなると思っていたのに。こんなはずじゃなかった。

雑巾を片手に握りしめながら、涙が止まらなかった

毎日、何をどうしたら良いのかわからなかった。

担任の先生はコウちゃんにどんな言葉をかけてうまくいったんだろう。夕方から掛け持ちのバイトをしていたため、早上がりをしていたわたしは、先生や保育士さんたちにそれを聞く機会も作れなかった。

「どう対応したら良いのかわからないから相談させてほしい」と言えていれば、子どもたちへの対応も、コウちゃんへの接し方も、職場での人間関係も、何か変わっていたと思う。だけど当時のわたしは、先輩に相談もできないくらい社会人として未熟だった。

自分は何もできていないと落ち込み、インターネットで「集団行動が苦手な子どもとの関わり方」を検索したり、関連していそうな本を読み漁ってみたり、なんとかしようと模索する日々を続けた。

そして勤務開始から1ヶ月経った日の朝、まだ誰もいない冷え切った更衣室で、園長先生にあの言葉を言われた。

「あなた、1ヶ月経っても成長が見られないの。役に立っていなくて、今のままじゃ困るんだけど。福祉の仕事ってね、周りをよく見て学ぼうとしないとできないものなの。あなた、向いていないわね」

わかっていた。わたしはこの1ヶ月、役に立っていなかった。そのとおりだった。

定年退職を目前に控えたこの道のベテランに、「向いていない」と言われたのだから、これはまぎれもない事実だと思った。心に芽生えたばかりの将来の夢がガラガラと崩れ、わたしは 何も言葉を返せなかった。これから大学生活残り3年半。何を勉強したら良いのだろうと、目の前が真っ暗になった。

その後も先輩に相談できないまま抱え込み、自分なりに試行錯誤を重ねたが、現状は一向に改善しなかった。むしろ、どんな行動も「役に立っていない」と思われているような、誰かに見られているような気がして、頭の中がパニックだった。コウちゃんが思うように行動してくれないことよりも、そのせいで自分がまた園長先生に叱られることの方が怖かった。恐ろしいことにわたしは、自分を守るために子どもに行動させようとしていた。理想の保育士像なんて、とっくに見失っていた。

働き始めてちょうど2ヶ月経った日の朝、わたしはまた園長先生に呼び出された。そして現実を突きつけられた。

「もう1ヶ月様子を見てみたけど、あなたには難しいみたいだから、今日から掃除や雑務のポジションに代わってもらう。クラスからは外れて。代わりの先生が入るから。ここが公立じゃなかったら、もうクビになっていたところよ」

役に立てなかった。やっぱり、ダメだった。その場で涙がこぼれた。「すみません……」消え入りそうな謝罪の言葉をやっとのことで絞り出し、わたしは子どもが来る前の誰もいない部屋の掃除と、おもちゃの消毒を始めた。以前カラオケのバイトで「掃除の鉄則は、部屋を明るくしてよく見える状態で始めること」と教わっていたから、早朝でまだ薄暗かった部屋の電気を点けて掃除をしていたら、「子どもが来るまでは節電してください」と電気を消された。たったそれだけのことなのに、自分を否定されることが辛くてたまらなかった。

広い部屋の隅でひとり、雑巾を片手に握りしめて、もう涙が止まらなかった。

俯いている女性の画像

ひとりでも、喜んでくれるなら

毎朝職場に行くことが辛かった。

自分には、経験も勉強も足りないからできないんだ、未熟なんだと思い、もっと勉強しなくてはと思っていた。でも、「あなたには難しいみたいだから」という言葉に、他の19歳の子ならできたのかもしれない、わたしにもできると思ったから雇われたんだ、できない自分がおかしいんだ、だから「向いていない」んだと、徐々に積み重なっていた自己否定は、アクセル全開で加速した。

もう保育士になれないのになぜ働いているのかわからなかった。辞めてしまおうと思ったが、あの園長先生を目の前にして、それを言い出すこともできなかった。

こみあげる涙をこらえ、いつもどおり、電気を消した薄暗い部屋でおもちゃを拭いていたある日、親御さんの仕事の都合で、ひとりの女の子が1番乗りで登園してきた。こないだまで同じクラスで過ごしていたモモちゃんだった。彼女はカバンを投げ出し、わたしの元へ駆け寄った。

「あっ!せんせい、きょうもいた。うれしい!」

自分がいることを喜んでくれる人が、ひとりいた。深い意味はないだろう。なんてことのない一言だろう。それでも、良かった。今日も、来て、良かった。

わたしに無邪気に笑いかける我が子を見たお母さんが、「いつもうちの子と遊んでいただいているみたいで、ありがとうございます」と女の子と同じように、笑った。ありがとうって言われた。ここに来てから初めてだ。うれしい。

もう一度挑戦したい

朝気球が飛んでいる写真

3ヶ月が経った頃、わたしは自分の意思でそのアルバイトを辞めた。掃除をしながらもいろいろなクラスの子と触れ合うこともあり、相変わらず辛かったけれど、次第に自分の心境が変化していった。一度は絶望したが、ちゃんと勉強してみようと思うようになったのだ。

本当に向いていないかもしれない。やってもダメかもしれない。でも、もしもう一度、コウちゃんのように集団の中で過ごしにくさを感じている子に出会ったら。もしもう一度、先生の手が足りなくてほうっておかれている子に出会ったら。その時は、少しだけでいいから、その子を理解できる自分になりたい。今の自分のままでは、嫌だと思った。わたしも何かできるようになりたい。そう思った。それが何かは、今はわからないけれど。

アルバイトを辞めてから、大学の近くの小学校で週に1回、クラス補助のボランティアを始めた。教室でじっと座っていられない子、勉強についていけない子、友だちとの関わりが苦手な子にたくさん出会ってそばで過ごす経験を、大学卒業まで3年半続けた。発達障がいについてひたすら本を読み、休みの日は片っ端から勉強会へ参加し、無我夢中で勉強した。いつも心の中には、寄り添えなかったコウちゃんと、支えてくれたモモちゃんがいた。アルバイトでの挫折は、夢への始まりになった。

19歳のわたしへ

ボトルの中に手紙が入っている写真

月日は流れ、保育業界での就職を果たしたわたしは、20代のうちにいくつかの現場でバリバリ働いた。中でも、集団での行動が苦手な子どもとその家族と関わる現場を、自ら選んで働いた。

ふとした時に、「大人の思うとおりに子どもに行動させようとしていた、19歳のわたし」と、コウちゃんを思い出す。

あれから数え切れないほど出会ったたくさんの子どもたちが、わたしに教えてくれた。「早くお部屋に入ろう」と、みんなと同じ行動をせかすのではなく、今、目の前のこの子の瞳には、何がうつっているのだろうと想像すること。どんな世界が見えているんだろうと、考えること。同じ目線の高さで、一緒に並んで、一緒に見ようとすること。

集団行動の決められたタイムスケジュールから少しズレることよりも、「理解されない」という体験を子どもに蓄積してしまうことの方が、ずっとずっと危険だ。きれいごとかもしれないし、理想かもしれない。だけど、複雑なことも現実的なこともすべて、「その子を理解したいと思う」姿勢の、その先にしか絶対にありえない。

30代に入り、実習生の若い学生やボランティアの学生を担当する機会が訪れた。子どもと仲良くなりたくて一生懸命で、だけどどう接したら良いかわからなくて。いつも周囲の先生たちに見られているプレッシャーで緊張していて。その姿は、いつかの自分と痛いほど重なる。

同じ仕事を目指している学生に、この仕事の大変さを伝えることも重要だ。憧れだけでは頑張れないし、就職する前に現場を知ることで、心の準備をすることもできる。

だけど、大切なことはそれだけではないと思う。この仕事の喜び、必要とされているという実感、関係を築いていくときの子どもたちの愛おしさ、子どもの成長を支えるのは自分ひとりではなく、チームだということ。大変な仕事だけど、かつてのわたしを支えてくれた「せんせい、きょうもいた。うれしい!」に出会える瞬間もあるということ。

厳しさを突きつけるだけでは、次世代は育たない。育たなければ、苦しんでいる子と家族を支えていくこともできない。それに、大切に描いた夢を、先輩だってベテランだってなんだって、簡単につぶしていい権利なんて誰にもない。これからの人生で、どんな仕事に就こうとも、あのときの経験をわたしは忘れないだろう。

もがき続けた19歳の自分と、園長先生、そしてコウちゃんとモモちゃんがいて、今のわたしがいる。

あとがき

今回のエッセイを書いていて、このアルバイトからもう15年も経っていたことに驚いた。

あのときの体験を思い出しながら書くことで、もう一度19歳のわたしに出会うことができた。いつも一生懸命で全力で、荒波に揉まれて不器用で、悩んでばかりで苦しかった。でもそれと同じくらい、愛おしく思った。

「良い経験」だったことに間違いはない。でも普段は気に留めないほどの小さな「傷」が心にまだ残っていたのだろう。そんな傷ともう一度向き合うことで、「よく頑張ったね、つらかったね。でも未来は大丈夫だから」と伝えられる今の自分がいて、癒されていくような、報われたようなあたたかい感覚に包まれた。がむしゃらで傷ついた当時の自分を、大切に思えた。あれから多くのことを経験したけれど、わたしの原点はここにあったんだと再認識できた。

これからもきっとつらいことがあるだろう。それでも、「絶対、未来は大丈夫だから」と、その言葉を胸に今のわたしも前を向いて歩こうと思う。

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