この機会を逃したら自分は一生そのままかもしれない。
そんな未来はもう見たくなかった。
私は決心しないといけなかった。
自分は一生このままかもしれない
私がバーテンダーのアルバイトを始めたのは、お酒が飲めるようになった20歳の時だった。
私は極度の人見知りだった。とくに自分より年上の大人と上手に接することができなかった。母子家庭で育ったからなのか、一番苦手だったのが30より上の年代の男性だった。
中学高校の頃は、それでも特に問題はなかった。だが大学に上がり自分がこれから社会人になると考えると急に将来が不安になった。仕事をしているとそんな人はたくさんいる。社会に出たらそんなことは言ってられないんじゃないかと思った。
すでにその時点でも、教授陣と必要最低限のコミュニケーションしか取れない私と、フレンドリーに話せる友人たちとの間には大きな差が開いていた。
友人たちは教授から色んな話を聞きだして上手に大学生活を送っている。一方私は何の情報を得ることもなく淡々と大学生活を送っていた。克服しないといけないと思った。
どうすれば克服できるのか手当たり次第に探し回った。ネットの検索もどこまで深くたどったか覚えていない。そして最後行き着いたのがバーテンダーのバイトだった。
バーテンダーをやってみたいという話をすると、いいお店があると従兄弟のお兄さんが私を連れて行ってくれた。
店のオーナーはすごい人だった。上手く話せない私から次々と言葉を引き出してくれた。たったの数十分で、人見知りの私がこの人といると居心地がいいなと思うようになった。この人のようになりたいと思った。
でも自分はこんな風に人話すことはできない。今までどれだけ人と話すのに苦労してきたかを思い返した。しかしこの機会を逃したら自分は一生そのままかもしれない。そんな未来はもう見たくなかった。私は決心しないといけなかった。
私は週に何度か出勤できるバイトを募集中だというオーナーの話に飛びついて、バイトをさせて欲しいとお願いした。荒療治だとは思った。でも今やらないと一生克服できない気がした。こうして私はバーカウンターの向こう側の世界に飛び込んだ。
私はただの「新人の若い女の子」だった
バーテンダーバイトを始めて最初の1カ月は、思いのほか順調だった。
心優しいオーナーの経営する店に来店するお客様はおだやかで優しい人が多かった。
「新人さん?名前はなんていうの?若いよね何歳?」
「女の子なのにこんな遅い時間まで頑張るね!」
20歳と若かった私に、お客様は優しく声をかけてくれた。ある時、私は客席までお酒を運ぶ途中でお客様の荷物に足を引っ掛けてしまい、盛大に転んで運んでいたお酒を全て床にぶちまけた。グラスは割れて辺り一面に飛び散ってしまった。
「大変申し訳ございません!」
と顔を青ざめてそう言う私だったが、すぐさま他のスタッフや近くの席に座っていたお客様が駆け寄ってきて「怪我はない?」「グラスの破片はこっちで片付けるよ」「大丈夫?」と声をかけてくれた。
私が長年恐ろしいと思っていた大人は、私が思っていたよりもずっとずっと優しいものだった。
あの頃の私は調子に乗っていた。思いの外難しくなんてなかったな。という思いもあった。新人の若い女の子というレッテルがあったからこその周囲の優しさに甘え、こんなもんかと高を括っていた。
やがてバイトを始めてから1カ月が経過し、私も業務に慣れてきたという事で、ホールを1人で任されるようになった。それまでは新人の私のフォローの為に常にオーナー+2人体制でホールを回していたが、繁忙時間以外は1人でホールを回すのが本来の店のやり方だ。オーナーは基本客席についてお客様をもてなすので、ドリンク作りや配膳には極力回らない。
初めは、1人でホールを任される事に喜びを感じていた。一人前になれたと思った。
だが、本当に大変なのはそこからだった。
投げ込まれたピンヒール
1人でホールを回すという事は、オーダーから配膳までをたった1人でやるということだ。
テーブル客に呼ばれればドリンクを作っている途中でもバーカウンターから抜けてオーダーを取りに行かなければいけない。カウンターのお客様の話を聞きながらドリンクを作り注文を提供しにいかなくてはならない。話の途中であってもうまくひと段落つけてだ。私にとっては至難の技だった。
「ひなたちゃん若いのに本当がんばってるね、普段は学生?」
「あ、はい」
私を気づかって話題を振ってくれるお客様にあいづちを打ち、ドリンクが完成すれば提供に走る。ドリンクオーダーが重なりてんやわんやになっている時などは、話を振ってくるお客様に対し今忙しいのにと思ってしまうこともあった。
ある日のことだった。カウンターに新規のお客様が1人いて、その他のテーブル席は全て満席だった。
オーダーを取り、作り、提供すればすぐにバーカウンター内に戻って次のドリンクに取り掛かる。私がカウンターに座るお客様に話しかけるのは、次のドリンクを確認する時だけだった。
不意に、カウンターの新規客が私に声を掛けた。
「君さぁ、何でこの仕事してるの?」
それは、これまでに何度も受けた質問だった。私はいつもと同じように定型文で返答をした。
「もともと人見知りだったので、お話しできるようになりたくて」
その時は、大してオーダーが溜まっていたわけでもなかった。一旦手を止めて、お客様としっかり顔を合わせて話をする余裕くらいはあった。でも私はそれをしなかった。相手が話を進めてくれると思っていたからだ。私がわざわざ面白くもない話をふる必要はないと思った。
「ふーん、じゃあ全然意味ないね。辞めたほうがいいんじゃない?」
手が止まった。私が思い描いていた返答とは全く正反対のその言葉に、頭が真っ白になった。その時初めて見たそのお客様の顔には、はっきりと苛立ちの感情が浮かび上がっていた。
とっさに笑顔を取りつくろった私に、お客様は苛立ちを隠すことなく言葉を続けた。
「だって、見てる限り君、機械的な仕事しかしてないよね」
機械的な仕事。その通りだった。オーダーを取って、作って、提供する。自分からお客様に声をかける事はなく、聞かれたことだけに答える。機械の自動音声にだってできることだ。
「お客様を楽しませようとか、そういうのを全然感じない。自分から話そうって全然思ってないでしょ?」
「そんなことないですよ」
心臓がバクバクして、手は震えていた。図星だった。そのお客様が心から私を軽蔑しているのがわかって、怖くて目を合わせられなかった。初めて面と向かってお客様に怒られた。この時の気持ちは今でも鮮明に覚えている。
結局、そのお客様はそれだけ言うとすぐにお会計を済ませ店を後にした。それきり、うちの店に来店することはなかった。
私は思い知らされた。何も成長していないどころか、人を不快にさせるような接客しかできていないのだと。自信がないからというのを言い訳に、自分から話をふる努力もしなかった。
そんなことがあってから数日後のことだった。
ガン。ガシャン。
ピンヒールが私の顔のすぐ横を通り過ぎてバーカウンター内に投げ込まれた。背後のバックバーに整列している酒びんが大きな音を立てて崩れた。
「だぁから!!こっちの酒まだきてねーんだよ!!仕事おせーな!!」
ピンヒールの持ち主の女性は顔を真っ赤にして怒っていた。
連れの男性が背中をなでて女性をなだめているが、彼女の昂ぶりが収まる様子はない。バースプーンを持った私の右手は震え、心臓はバクバク鳴っていた。
「えぇ!みきちゃんどうした?靴投げたら危ないよ?」
私の左肩に手が触れた。優しげな声で彼女にそう声をかけたオーナーはそのまま私の腕を引き、視線を合わせずにバックヤードへと合図をした。
私は何度も何度も「すみません。申し訳ありません」と女性に向かって頭を下げながら奥へと引っ込んでいった。
バックヤードへ下がった私は、熱くなった目頭から涙だけはこぼすまいと思い、唇をかみしめてうつむいていた。
「ひなたちゃんタチ悪いのに当たったね。大丈夫?」
おそらく女性の怒声が聞こえていたのだろう、バックヤードにいたフード担当のスタッフは私にそう言葉をかけてくれた。
すぐに言葉を返せなくて、私は引きつった笑顔を浮かべるとまた床へ視線を落とす。タチの悪いお客様?いや違う。これは明らかに私が招いた事態だ。仕事も遅い上にまともにお客様をもてなすこともできない、もてなそうともしない。
「やっぱり辞めよう。私には向いてない。辛い」
バックヤードで座り込みうつむきながら、私は辞めることばかり考えていた。
何のためにここにいるのか
「ひなた、今日は大変だったね」
営業が終わった。着替えを済ませた私がホールに戻ったタイミングだった。それまで売り上げの集計をしていたオーナーが、手を止めて私にそう言った。
「あ、はは。そうですね」
私は必死で何事もなかったように取りつくろった。オーナーにがんばって笑顔をつくった。きっと下手くそだったと思う。
自分の招いた事態で店に迷惑をかけ、オーナーに尻拭いをさせた挙句、勝手に傷ついて落ち込んでいる自分が情けなくて情けなくてどうしたらいいかわからなかった。
「ひなたは優しくて真面目だから、全部やろうってがんばっちゃってるよね」
オーナーが私の方に向き直って、
「でもきついなって思ったらそれを正直に言ってもいいんだよ。お客さんと話す時だって、盛り上げて笑いを取らなきゃって気負わなくていいんじゃない?」
常に誰かしらかのお客様を相手にしていて忙しいオーナーが、私の接客態度をしっかり見ていてその内心まで把握していたことに驚いた。
「ひなたは優しいから、話を聞いてもらって喜んでるお客さんもいるよ」
唇がブルブルと震えた。力を入れてないと涙が溢れ出しそうで、ぎゅっと目に力を入れた。それに気が付いたオーナーは困ったように笑って、私の肩をぽんと叩くとお疲れと言って私を出口まで送ってくれた。
帰り道の街灯の下に枯葉が落ちている。
家までの帰り道を歩きながら私は考えた。なんの為にこのバイトを始めたのか。どうなりたいのか。私にできることはなんなのか。
そんなとき頭に思い浮かんだのはオーナーと初めて会った時のことだった。
人見知りの自分がオーナーと話をして感じた安心感。この人と一緒にいたいと思える感覚。
それはオーナーが私のことをしっかりと見ているからだと思った。
オーナーは自分の作業が忙しいときでもちゃんと私のことを見ていた。それは他のスタッフに対しても同じはずだ。もちろんお客様に対しても。
相手をしっかりと見る。その人がどんな風に感じているのか考える。それはその人のことをしっかりと観察しているからこそわかることだと思った。
次の出勤の日から私は、とにかく人をよく観察した。それはお客様だけでなく、一緒に働くスタッフのことも必死で観察した。
他のスタッフはお客様にどんな声掛けをしているのか。
話しかけられた時にどういう返答をしているのか。
オーダーが重なった時のお客様への対応は?
とにかく見て、真似をして、やってみる。何度も何度も繰り返した。
話のネタ、気持ちのいい切り返し方、できる限り早く提供できるようなドリンクのレシピ、お客様の名前や趣味・仕事など、学んだことを書き込んだ携帯のメモ帳は、次第にいっぱいになっていった。
「ひなたちゃん!今日いるかなって思って来たんだ!」
「いらっしゃいませ!この間のあれどうなったんですか?」
「実はさ」
「うんうん、あ、オーダー呼んでる、少々お待ちを!1分で戻ってくるので!一時停止しといてください!すぐ戻ってくるんで!」
「わかったよう」
「矢野さん今日は二日酔いじゃないんですね?」
「そう。今日は調子よくてさ、昨日はやばかったけどね!」
「え、どうやばかったんですか?」
「なんかね」
「ウィスキーお好きなんですか?」
「ああ、うん。カクテルとかもいつもウィスキーベースにするんだよね」
「へぇ!うち、ウィスキーベースのオリジナルカクテル持ってるスタッフがいますよ!」
「おねえさんが作るんじゃないんだ」
「そうなんです、すみません。あと1時間くらいで出勤してくるので、来たら1番に頼んでおきますね」
「それまでいろってことか」
「もちろん!」
一年が経つ頃には、向いてない辞めたいと思うことはなくなっていた。
人の話をきちんと聞いて、言葉を返す。
言葉を交わして、その人のことを知る。
ピンヒール投げ込み事件の後、みきさんとは店で何度も顔を合わせた。初めは私もみきさんも気まずさからロクに言葉を交わせなかったが、時間をかけて話していくうちに知ったことがあった。みきさんは水商売をしている女性で、自分のお客様をとても大切にしている人なんだと。あの時怒声をあげて怒ったのは、自分のお客様のドリンクがいつまで経っても届かなかったからだったんだと。
それは、みきさんとしっかり話さなければ知ることのできなかった事実だった。
私は会話ができるようになった。たかが会話、されど会話。人と人との関わりの中で最も当たり前で、最も大切なこと。面白くなくてもいい、盛り上げようと気負う必要はない。私にできるのは、話を聞いて寄り添うことだ。
私は、私のやり方を見つけることができた。
今の私につながっている
私は今、営業職に就いている。
人見知りだった頃の私からは到底考えられない職業だが、それなりにうまくやれていると思う。爆発的な結果を出せるわけじゃない。でも、1度私と取引をしたお客様はその後長く継続してくれた。私は相手の話を聞きニーズに合わせて寄り添える営業として社内で評価をいただいている。
これはあの、バーテンダー時代に培ったものだ。あの経験がなければ今の私はここにいない。
あのバーカウンターの向こう側の世界は、私の人生を確かに変えた。