この時期、盗犯担当も兼ねている私たちアルバイトは図書館のカウンターで自分達の試験の勉強をしながら、警戒態勢にはいっていた。

私たちアルバイトは本を持ち出そうとする学生をひそかに三つのレベルに分けていた。

「お前、ふざけるな!」

バーンと言うドアを開ける大きな音が館内に響いた。

アルバイト先の先輩有田さんがちょっと目を離した隙だった。テーブルの手前側に座っていた学生はカウンターの上にあった自分のバッグを鷲掴みにして、片手で入り口のドアを叩き開けた。そして脱兎のごとく走り去って行った。

有田さんがその後を一目散に追った。

図書館バイトは本泥棒との闘い

本棚の写真

数分後、上気した顔の有田さん戻ってきて「逃げられた」とぽつりと言った。「残念です。レベル2ですね」と他のアルバイトが彼をねぎらった。有田さんはまだ肩で息をしていて体から白い湯気が立っていた。開いたままのドアから外の冷気が静かに入って来た。

それは私が大学の図書館でアルバイトを始めて三日目の事だった。大学のテスト期間中は「気をつけろ」と言われていたが、何に「気をつけるのか」は全く分からなかった。ただその時は「レベル2」という言葉が頭に残った。
 
通っていた大学の図書館でアルバイトを始めたのは私が大学二年生の時だった。大学を卒業した後、海外に留学をしようと決めていた私は毎日のようにそこで働いた。大学だけあって職場環境や労働条件はとても良かった。待遇も良かった。仕事は更新可能な一年契約で、ボーナスまで支給された。私はそこで4年間働き、300万円程度の留学資金を貯めた。図書館での主な業務は本の貸し出しや書架整理で問題なかったが大変だったのは試験期間中の「本泥棒」との戦いだった。
 
大学の図書館にある全ての本には磁器テープが張ってあり、黙って本を持ち出そうとすると出口のセンサーが反応し、大きな音が鳴るシステムになっていた。「本泥棒」を見つけて、捕獲するのも図書カウンターで貸し出し業務を担当しているアルバイトの仕事の一つだった。大学の学生は誰でも本を借りる事が出来るので普段は問題なかったが、困ったのは大学の試験期間中だった。高価なテキストや参考書を買いたくない学生が、貸出禁止のテキストや図書館の本を無断で図書館の外に持ち出そうとするのだ。テストが迫り、余裕の無い彼らは、通常の書店で手に入らない専門書を図書館から調達しようとするのだった。

この時期、盗犯担当も兼ねている私たちアルバイトは図書館のカウンターで自分達の試験の勉強をしながら、警戒態勢にはいっていた。私たちアルバイトは本を持ち出そうとする学生をひそかに三つのレベルに分けていた。 

レベル1コソ泥

ランプアラームの写真

このレベルの犯罪者は微妙だ。故意が8割、無意識が2割といったところだろうか。

実際の所、「うっかりして図書館の本を自分のバックに入れてそのまま出てきてしまう」という事があるだろうか?本を館内でコピーしようとして、授業の時間が来たので急いでそれを持っ出て来てしまったというのはあるかもしれないが、それもいい訳としてはかなり苦しい。多分、「一冊ぐらいならばれないと思い、図書館の盗難防止ゲートをすり抜けようとした」というのが本音だろう。

犯罪の動機はともかく、出口の警報ベルがなったら、私たちアルバイトは容疑者を確保し、カバンの中身をチェックしなくてはならなかった。大きなアラームが館内に鳴り響いた瞬間、容疑者の顔の表情、特に目を見ればそれが確信犯かどうかがなんとなく分かった。うっかり持ちだした場合は容疑者自身も驚いた表情を浮かべるが、確信犯の場合動揺するが、目だけはこちらをじっと見ている事が多かった。

それでもこれらコソ泥はまだましだった。カバンを開けて本が出てくると、彼らのほとんどはすぐ自分の非を認め、謝罪した。(すぐ謝るなら、最初から本なんかを持ち出さなければいいのだが……)

この時辛いのは私たちアルバイトである。学生が謝っているにもかかわらず、私たちは彼らが持ち出そうとした本を取り返し、本の状態をチェックし、説教し、「以後は同じ間違いを繰り返さないで下さい」と警告する。しかし、それで彼らが無罪放免される訳ではない。私たちは皆の前で、その学生のIDをコピーし、住所と名前と電話番号をブラックリストに書き加えるのだ。同じ大学の学生として本当に心苦しいが、ルールはルールだ。非を認めている相手に制裁を科すというのは全く気持ちのいいものではない。

「身から出たさび」とは言え、彼らにとってみれば踏んだり蹴ったりだった。大きなアラームは鳴るし、野次馬は集まってくるし、ブラックリストには載る。学生のバックから図書館の本が出て来るのを見るのは辛かった。何か他人の見てはいけない暗部を見てしまったような気持ちがした。 一度面倒を起こすと羞恥心からなのか、図書館には以後来なくなってしまう。私はなんだか、彼らを図書館から追い出したようで気分が悪かった。

勤務していた図書館の盗難防止ゲートのセンサーの精度があまり高くないことが理由で、可哀そうな被害者になった人もいた。例のようにアラームがなり、学生のカバンを開けると、そこから『ゴリラさんだめです』というアダルトビデオが出て来た。当人も『ゴリラさん』をカバンの中に持っていた事を忘れていたようだが、それを真昼間に皆の前で披露する事態になるとは想定していなかったらしい。私たちが「失礼しました。センサーの誤作動です」と言うと彼は顔を赤らめ、『ゴリラさん』を慌ただしくカバンの中にしまい、何も言わずに足早に去って行った。高等教育機関とアダルトビデオは相性が良くなかったようだ。

レベル2確信犯

破れた紙の写真

このレベルの犯罪者は確信犯である。彼らの持ち出そうとした本がそのままの状態で出てくればまだ良い方で、本のページが切り取られたり、本自体が大きく破損している場合もあった。

長年の捜査経験から言うとおそらく、彼らは本から磁気コードを取り除こうとしたのだろう。図書館の中で本をばらすと見つかりやすいので、トイレの中にでも入って細工に及んだのかもしれない。彼らが甘かったのは、コードを一つ取り除けば大丈夫だと考えた点だ。同じ本にコードが複数入っているとは思いもよらなかったのだろう。私たち捜査三課所属のアルバイトを甘く見てはいけない。私たちの磁気コードを張り付ける技術も犯罪者との戦いで切磋琢磨され、進化しているのだ。

このレベルの犯罪者は厄介だった。特に本を故意に破損させた場合、その代償は大きい。盗難+器物破損+現行犯というスリーランホームランで、悪ければ大学から「停学」させられる可能性もある。もうテスト勉強どころの話ではない。

これは私たちアルバイトにとってもきつかった。同じ学生として彼らの心情が痛いほど分かるからだ。彼らはただ、図書館の本をちょっと失敬して、学校の試験の為の勉強をしたかったのだろう。本の必要なページだけ図書館でコピーをすれば済む話だが時間が無かったのだろう。(図書館内のコピー機は試験期間中になると学生が殺到する為、いつも故障していた。いつもはほとんど誰も使わないのに)

これら確信犯は別室に呼んで、何が起こったか説明してもらうのだがこれがなかなか一筋縄ではいかない。本を盗むだけならまだしも、破損させてしまうと、人間の心理として自分の誤りを素直に認め、謝罪するという事が難しくなるようだ。彼らがよく言うのは「本を見つけた時、それは既に破損していた」とか、「間違って自分のカバンにしまった」という言い訳だ。(そうだとしても、それを無断で持ち出してはいけないですよね)

彼らが非を認めて、謝るまで私たちアルバイトは何もする事ができない。逃亡する恐れもあるのでそこから離れられないし、途中で切り上げる事も出来ない。水さえ飲みに行く事が出来ない。沈黙が痛かった。早く謝ればいいのにと思った。大学は教育機関だから学生が自分の誤りを認めて謝罪すれば、本の盗難くらいで自分の大学の生徒を警察に通報するという事はしないからだ。

一番辛かったのは彼らの姿に自分を見てしまうことだった。私もテストが迫っていて時間と心の余裕がなく追い込まれたら、彼らと同じ事をしたかもしれない。学生は未熟で弱いものなのだから。

レベル3サイコパス

皆既日食の写真

このレベルになると私たちアルバイトでは対応が出来ない。もはや宇宙人との会話だ。一番酷かった体験がある。それはある土曜日の午後の出来事だった。

防犯アラームが作動して、出入り口に駆け付けると一人の学生が防犯センサーの前で立っていた。持っていたバッグをカウンターで開けてもらうと、図書館の本が二冊出て来た。「これは図書館の本ですが、貸し出し手続きをしましたか?」と尋ねると、彼は全く悪びれたそぶりも見せず「いいえ、でもちょっと読みたかったので」と言った。「図書館の本なので、館外で読む場合は手続きをしてもらわないと困るのですが」と言うと彼は何も返事をしなかった。

別室に来てもらい、説明を求めたが彼は終始無言だった。しょうがないので、学生IDの提示を求めると、彼は近くにある有名なT大学の学生証を差し出した。それから彼はぽつりぽつりと話を始めた。土曜日だから今日は大学の授業がなかった事、図書館が自分の家の近くにあるのでちょっと寄ってみた事、そこで面白そうな本を見つけた事などなど。そして、最後に全く悪びれずこう言い放った。「本と言うのは自分のような(有名)大学に通う学生の為にあるもので、良い本があれば自由に持って行っても問題ないはずだ。」と。

彼は何を言っているのだろうか。これには私たちもお手上げだった。私たちバイトは彼を大学の職員に引き渡した。

後日その職員の方に聞いたところによると、他の大学の図書館に無断で入り、本を盗み現行犯で捕まったにもかかわらず、彼は一度も謝るどころか自分の非も認めず、「全ての本は自分の為にある」というような主張をずっと繰り返したそうだ。彼の態度に業を煮やした図書館側は、彼の母親に図書館まで来てもらい、話し合いをしたが彼の態度は変わらなかった。しかし最後に、職員の方が「警察とT大学に通報する」と言ったところでとうとう(彼ではなく)母親が謝罪したそうだ。少なくとも母親は、全ての本が彼の為だけに存在している訳ではないという事に気が付いたらしい。

今、当時のアルバイトを思い返して

本と鉛筆の写真

四年間大学の図書館のアルバイトで本泥棒と接して学んだ事がある。それは、「人間の弱さ」だ。万引きをした学生は根っからの犯罪者ではなく、その多くはどこにでもいる普通の学生だった。ただ試験前に十分な準備をしていなかったのでその直前になって慌て、単位を落とせないというプレッシャーからつい図書館の本を持ち出してしまったのだ。

人間は弱いものだ。追い込まれると後先の事を考えず、つい簡単な解決方法に飛びついてしまう事がある。私の中にも「本を失敬しようとする学生」がいて、今でも何かの拍子で動き出す事がある。しかし、面倒くさいから誰にも分からないからとやるべきことをさぼり、見つかったときに取り繕った言い訳をすると火傷をするのだ。

今思い返すと大学の図書館の職員の方には本当にお世話になった。たいして仕事も出来ないアルバイトの私に業務を辛抱強く教えてくれただけでなく、毎週のように飲みにも連れていってもらった。今でも覚えているが、ある職員の方とバイト7-8人で飲みに行って、その会計が10万円を超えた事があった。その方はそれを当然のように一人で全部払った。(割り勘にしたとしても、多分アルバイトのほとんどは払えなかっただろう。若くて遠慮がないという事は恐ろしい事だ。) 彼らはどうしてそこまで私たちの相手をして面倒を見てくれたのだろうか。

今私は家庭を持ち当時の職員の方の年齢になったが、まだその境地には達していない。今さらながら、彼らの器の大きさや人間性に感謝したいと思った。

コチラの記事もおすすめ!

JOBLISTで求人を探す