橘さんはヤクザたちに向かって、「あんたら、九州のはしか犬って聞いた覚えないか?」と訊いた。

私の今も忘れられないアルバイトは、大学に入学したときのことだから、今から三十年以上も前のことになる。私は何か目的があったわけでも、何かを勉強したかったわけでもなく、ただ単純に東京に出てみたくて北海道から東京にある大学に進学した。

しかし、その大学は一年生のときだけ、埼玉県の大宮市にある校舎で学ばなければならなかった。私は仕送りをあまりしてもらえなかったので、その校舎の裏手にある部屋代が格安の学生寮に住むことにした。しかし、その校舎の周辺はほとんど家も店もなく、寮生たちのほとんどは自炊しなければならなかった。お金のない私は食費を浮かすためにも食事つきのアルバイト先を探したのだが、繁華街は大宮駅周辺しかなく、寮から大宮駅に行くにはバスで二十分ほどもかかる。当時は、まだコンビニがあること自体珍しく、ファミリーレストランも見かけることがほとんどない時代だった。だから、学生のアルバイトといえば、喫茶店か居酒屋くらいしかなかった。働ける時間は夕方から夜に限られる。しかし、夜が遅くなるとバスはなくなり、寮まで歩いて帰らなければならなくなってしまう。試しに歩いてみると、ゆうに一時間近くかかってしまい、アルバイトのあと歩いて寮に帰るなどとうてい無理だと暗澹たる気持ちになった。

国道沿いの居酒屋バイト

居酒屋のメニュー表の白黒写真

さて、これからどうしたものだろうと大学の授業はそっちのけで、アルバイトのことばかり考えている毎日だったのだが、あるとき同じ寮に住む小林というやつが、寮から歩いて十分ほどのところに新しく店がオープンしたのでいってみないかと言ってきた。しかも、アルバイトを募集しているという。私は次の日、先に誰かにアルバイト口を取られては大変だと思い、授業をサボって、すぐに行ってみることにした。

その店はやたらと大きな店で、東北縦貫道に続く国道沿いにポツンと立っていた。あたりに民家もない。目の前の国道をトラックがひっきりなしに走っているから、トラックの運転手たちが立ち寄るのかもしれないが、駐車場らしきものも見当たらない。私は大きなガラス張りの入り口にアルバイト募集の張り紙がないかと調べた。確かにあった。だが、深夜できる人を探していると手書きで書かれていた。時給は応相談とある。ここなら、どんなに遅くなっても寮まで歩いて帰ることができる。私はよほどおかしな店でない限り、ここで働かせてもらうしかないと心に決めて、店内に入った。

梶さんという不思議な店長

外に木々がある窓

「すみません。アルバイトの張り紙を見てきたのですが……」
私は人っ子ひとりいない広い店内で声を出した。

「ああ、はい」カウンターのほうから声がしたので見ると、黒々とした髪を油でテカテカに光らせ、大きな黒縁眼鏡をかけた三十代後半か四十歳くらいの中年の男の人が、カウンターの床掃除でもしていたのか、ひょっこり顔を見せた。白いワイシャツに蝶ネクタイ、黒のベストに黒のスラックスを履いている。どうもその店には似つかわしくない感じがする。

「N大の学生さん?」その中年の男の人は、愛想笑いを浮かべて訊いた。「はい」と私が答えると、「いつから働ける?」といきなり訊いてきた。私が戸惑っていると、「あ、時給、決めないとね。深夜だから、いくらぐらいがいい? 700円じゃ安いかな」梶と名乗ったその中年の男の人は、相変わらずにこにこした顔を向けている。当時は喫茶店のアルバイトの時給が600円くらいだったから、高くも安くもないといったところだ。「店にあるもの、なんでも食べていいし、夜ここを任せている店長に言えばたいていのものを作ってくれるから、食事の心配もいらない。悪い条件じゃないと思うけどなあ」梶さんは、上機嫌でしゃべり続けた。

「深夜からって、何時から何時まで働くんですか?」
私はようやく聞くべきことを思いついた。

「そうだねえ。何時でもいいですよ。ここ、24時間営業なんですよ。朝から夜までは、私とパートの女の人と二人でやってて、夜からは橘って人、あ、夜の店長さんね。その橘店長とあなたとで、私が来る朝までやってて欲しいんですよ。でも、大学があるから無理かな?」

「朝まではちょっと……」私が言い淀んでいると、「お客さんがいないときは寝てていいんですよ。そこらへんで」と店のソファを指して言った。「毛布もあるし、暖房も利いてるから寒くないですよ」梶さんは、ともかく屈託なく言い、笑顔を絶やさずに言う。私は狐につままれたような気分になってきた。だいたい、履歴書を見せろとも言わないのだ。

「あの、これ、僕の履歴書です」私が思いついたように言うと、「あ、テーブルに置いといて。それより、いつから働けますか?それとも働く気なくなっちゃいましたか?」梶さんは、どこまでも明るい丁寧語で訊いてくる。

「あの、ここの店の名前、なんていうんですか?」外には看板もないし、店名が書かれたものがどこにもないのだ。「あすなろ。明日あたり、看板、業者の人が取り付けに来るはず。いい名前でしょ?あすなろ。ほら、井上靖の小説のタイトルにあるでしょ?あすなろ物語って。私、あの小説が好きなんですよ。明日、ヒノキになろう。あすなろう。でも、しょせん、あすなろはあすなろでヒノキにはなれない。だけど、いつかは何者かになってやろうって物語。いい話ですよねぇ」小説のタイトルは聞いたことあるが、私は読んでいなかった。それにしても、この梶さんという人と井上靖もどうもピンとこない。しかし、私はいつの間にか、この梶さんという人に惹かれている自分に気づいていた。

「じゃ、本当に今日から働かせてもらいます」私は、自分で言って驚いた。が、梶さんは、「あ、そう? うん、そう言ってくれると思ってましたよ。うん、じゃ、がんばろう、うん」と、まるで予想していたかのような口ぶりで言った。

そして、「じゃ、僕、ちょっと寝るから、悪いんだけど、しばらくここにいてくれないかな? その分もちゃんと払いますから」と言うと、私の返事を待つことなく、梶さんは毛布もかぶらず、店の隅のソファに行って横になったと思ったら、数秒もしないうちにびっくりするほど大きないびきをかいて眠ってしまったのだった。

一度しかない人生だから

木漏れ日と並んだ自転車

梶さんは5~6時間は寝ていただろうか。目を覚ましたころには、すでに夕方近くになっていた。その間、お客さんはひとりもこなかった。それでも梶さんは、相変わらず笑顔のままだ。そして、梶さんはほぼ三日間も寝ずに、この店の開店準備をひとりでしていたと言った。

梶さんは、私がそれまで会ったことのない、不思議な魅力をもった人だった。いつも明るく、何事にも動じない雰囲気があるのだ。結局、私は初めていったその日から働くことになり、梶さんのことについてずいぶん知ることができた。梶さんは、ある大手スーパーの店長を長いことをしていたのだという。「売り上げが低迷する店舗があると、そこに行かされてましてね。僕は業績を上げるの、得意なんですよ」と自慢話をするのだが、ぜんぜん嫌味に聞こえず、むしろもっと聞いていたい気持ちになる。しかし、そんな大手スーパーの敏腕店長だった人がどうしてその会社を辞めて、こんな辺鄙な場所で24時間の昼間は喫茶店&お食事処で、夜は居酒屋という変わった店をやろうとしたのだろう?胸の内でそう思っていると、梶さんがすかさず言った

「雇われ店長はおもしろくありませんよ。一度しかない人生なんですからね。自分の力って本当にあるのか試してみたいじゃないですか。それにいい場所で店を出したら、そりゃうまくいって当たり前ですよね? こんなところで店、やるの? と思われるところで成功したほうがおもしろいじゃないですか? そう思いません? だから、あすなろ。ね?」梶さんの特別な能力は、相手が思っていることを読み取ってしまうことではないかと思う。だから、スーパーの店長をやっても成功したのではないだろうか。

夜の店長がきたのは、私がアルバイトをはじめてから四日経ってからだった。それまで梶さんは、朝から24時間「あすなろ」で働きどうしだった。そして、その橘さんという夜の店長がやっときたときも梶さんは、橘さんを責めるでもなく、叱るでもなく、いつものように笑顔で、「やっときてくれましたね。こちらはN大の学生さんで、橘店長と朝まで働いてくれる西川さん。よろしく頼みますね」梶さんはそう言って、店を出ていったのだった。

小指のない橘さん

飲みかけのビール

「梶さん、俺のこと、なんか言ってたか?」梶さんが帰ったあと、橘さんがしゃがれた声で私に訊いてきた。橘さんの年齢もほぼ梶さんと同じくらいに思えた。

「いえ、特には……」私は、橘さんと会った瞬間、得体のしれない恐怖心を抱いていた。なんと説明したらいいのか、橘さんは体全体から人を威圧する雰囲気を出しているのだ。

「生ビール、飲むか?」橘さんが突然訊いた。「あ、いや~」私がどう答えていいかわからないでいると、「お客なんてこないさ。飲めよ」橘さんは、私の返事も聞かず、生ビールをふたつ注いで、私にジョッキを差し出した。そのとき、私は見てはいけないものを見てしまった気がした。橘さんがビールジョッキを持った左手の小指が第二関節からなくなっていたのだ。橘さんの髪型は、考えてみれば、パンチパーマをかけたまま手入れせず、何か月も放っておいたもののように思える。浅黒く角ばった顔の形、奥目のその瞳はひどく冷たい光を放っているようにも思える。「指、気になるか?」橘さんが突然、訊いてきた。

「あ、いや~、はい……」私は混乱していた。「察しのとおりだよ。ま、昔の話だけどな」やはり橘さんはヤクザだったのだ。「腹、減ったろ?なんか食うか?」橘さんは、口数が少なく、突然訊いてくるのでいちいちドキドキしてしまう。「なんでも食べます」と言うと、橘さんは黙って立ち上がり、調理場に行くと、とても手際よく中華鍋を使ってチャーハンを作ってくれた。これがとてもおいしく、私は本当に驚いた。「おいしいですね」と私が言うと、「料理は得意だからな」と言い、また生ビールを飲みながら、今度はよれよれのジーパンの後ろポケットから文庫本を出して読みはじめた。

「何を読んでるんですか?」チャーハンを食べ終えて訊くと、「痴人の愛」と橘さんは答えた。「は?」私が訊くと、「谷崎だよ。やっぱ、文学は谷崎だろ」と橘さんはまじめな顔をして言った。梶さんは、井上靖が好きだといい、橘さんは谷崎潤一郎が好きらしい。梶さんと橘さんはいったいどんな関係なのだろう?私は、いろいろ知りたいことがあったが、なかなか聞けずにいた。

襲撃

日本刀

「あすなろ」にはお客さんは、ほとんどこなかった。たまに同じN大の寮生がくるくらいのものだった。そして、橘さんといえば、三日に一度くるかこないかだった。つまり、夜は私がひとりでやっているようなものだった。私は料理ができないから、橘さんがきてくれないと困ると言うと、橘さんは、「どうせ客はこないんだし、もし来て、なんか料理しなきゃならないもんを注文したら、それは切らしてるって言っとけ」と言うのだった。

そして、「あすなろ」開店から一週間過ぎたあたりに事件は起きた。私がひとりで店にいると、九時ごろになって、店のドアが開いた。見るからにヤクザと思われる人たちが五人ほどでやってきて、インベーダーゲームをやるから一万円をすべて百円玉に両替えしてくれというのだ。明らかにいやがらせだ。私が、「そんなに百円玉、ないですよ」と恐る恐る言うと、「だったら、こんなもん置いて商売してんじゃねぇ!」と、ひとりが暴れ出した。すると、後に続けとばかりに他の四人もテーブルやソファを持ち上げて投げ飛ばすわ、蹴りつけるわ、店の中をめちゃくちゃにし出した。

私はあまりの怖さに厨房に逃げて、しゃがみ込んで、がたがた震えながら静かになるのを待った。そして、しばらくして静かになると、「おい、にいちゃん」と、ヤクザのひとりが私が隠れている厨房を覗いて言った。「明日も来るからよ。ちゃんと一万円分の百円玉、用意しとけや」そう言って帰って行った。私は預かっていた鍵で店を閉めて寮に帰り、梶さんが来る時間を待って、一睡もすることなくまた「あすなろ」に向かった。

驚かない梶さん

月

「こりゃ、まいりましたねえ」私の顔を見て、梶さんが言った。梶さんも鍵を持っているので、私より早く「あすなろ」にきたようだった。梶さんはさすがにいつもの笑顔ではなかったが、それほど驚いた様子でもなかった。「すみません。勝手に店を閉めちゃって」私が昨夜のことを話すと、梶さんは「そうですか。それは怖かったでしょう?」と、うっすら笑みを浮かべて言った。「で、その人たち、今夜も来るって言ってたんですね?だったら、西川さんは、今夜はバイトしにこなくていいですよ。一万円は、私が銀行に行って百円玉に両替しておきますから」と言うのだ。つまり、梶さんは、あのヤクザたちを相手に店をやるつもりでいるのだ。この梶さんて人は、いったいどんな人なんだろう?と思った同時に、私はもしかしたらこの梶さんもヤクザではないか?という気もしてきた。

その夜、私はもちろん「あすなろ」を休むことにしたが、どうにも気になって仕方がなかった。そして、迷った挙句、あのヤクザたちが来ると言った夜の九時ごろ、そっと店の近くまで行ってみたのだった。「おまえ、そんなとこでなにしてんだ?」物陰に隠れている私は背後から声をかけられて心臓が止まりそうになった。橘さんだった。私が橘さんにも昨夜のことを話すと、橘さんの顔つきが一気に変わった。「そりゃ、おまえには悪いことしたな。一時間後におまえは店に来い。梶さんは、俺が帰らせる」橘さんは、私に有無を言わせぬ物言いをすると、そのまま店に入っていった。私は怖いもの見たさもあったし、あの橘さんの言うことは聞かないわけにはいかないと思ったので、いったんは寮に戻り、一時間後にまた「あすなろ」に向かうことにした。

九州のはしか犬

タバコの煙

一時間後、私が「あすなろ」に入ると、奥の席に昨夜きたヤクザたち五人がおり、彼らと向き合うようにして橘さんが足を組み、ソファの背もたれに寄りかかるようにして座っていた。「おう、来たか。こっちにこいよ」橘さんは、私の顔を見て手招きした。ヤクザたちもじろりと私を見る。私の心臓はもうバクバクで、やっぱり来なきゃよかったと思ったが、もう遅い。

「学生、ゆんべ、店、荒らしたの、この人たちで間違いないか?」橘さんが、ごく普通に訊いた。

「あ、はい」俺が答えると、橘さんは、「そうか」と言い、ヤクザたちに向かって、「あんたら、九州のはしか犬って聞いた覚えないか?」と訊いた。ヤクザたちは互いの顔を見合わせている。どうやら知らないようだ。「そうか。俺がそう呼ばれていたのもずいぶん昔の話だからな。ま、それはともかく、あんたらは俺の恩人の店を荒らしたことは間違いねえ。てことは、俺と戦争しようってことだよな? じゃあ、俺も兵隊、集めるから小一時間待っててくれや」橘さんはそう言うと、立ち上がってカウンターの隅にある電話のところに行ってダイヤルを回した。

「おう、橘だ。悪いが、これから集められるだけ兵隊集めて、大宮まできてくれや。場所は――」橘さんは、簡単に場所を説明すると電話を切って、またヤクザたちのいる席に戻っていった。「あの、ちょっと電話、借りていいすか?」ヤクザたちの中で三十代半ばと思われるリーダー格の男が、おずおずと橘さんに訊いた。橘さんは、「ああ」と小さく答えた。リーダー格の男は、さっき橘さんがかけた電話の場所までいくとダイヤルを回し、こそこそと小さな声でなにやら話をしていたが、すぐに電話を切った。顔つきがひきつっているように見える。「橘さん、俺たち、大変なことしちまったみたいで……」橘さんの向かいに座ったリーダー格の男は、さっきの崩れた座り方と違って背筋をピシッと伸ばし、両手を膝の上に揃えて言った。「で?」橘さんは、先を促した。「ですから、その、どうすればいいんでしょうか?」リーダー格の男が言うと、橘さんはグイッとリーダー格の男に顔を近づけ、「おい、戦争はじめたの、そっちだぞ」と囁くように言った。小さな声だった。しかし、橘さんのその言葉の響きは、背筋に寒気を走らせるほどの冷淡さを持っていた。

橘さんは退屈そうにし、ヤクザたちは親に叱られた子供のように首を垂れて無言のまま、どれくらいの時間が経っただろう。「あすなろ」のガラスドアに何台ものヘッドライトが当たった。少しすると、みんな黒の高級そうなスーツを着込み、眼光鋭い15人ほどの男たちが店に入ってきた。

「橘の兄貴、遅れてすみません」薄い色付きのサングラスをし、髪を短く刈り込んだ三十代後半の男が橘さんの前で直立不動の姿勢で言った。

「こいつら、俺の恩人の店からミカジメ取ろうとしやがって、ゆんべ暴れてくれたらしいんだ。おまえらで、こいつらの組に行って、ナシをつけてくれや」橘さんが言うと、直立不動の男は、リーダー格の男を睨みつけると、「おい、てめえ、どこの組だ?」とどすの効いた声で訊いた。「〇△会傘下の田丸組です」リーダー格の男の声は震え、今にも泣きだしそうな様子だ。「田丸? 知らねえなぁ。まあ、いい、案内しろや」薄い色付きサングラスの男が言うと、リーダー格の男は、「はい」と小さい声で答え、肩をすぼませて立っている手下たちを連れて店を出ていった。橘さんが店に来た15人ほどの男たちを見送るために外に出たので、私もついていくと、黒塗りのベンツやクラウンといった高級車が「あすなろ」の前の沿道に並んで止まっていた。

「橘の兄貴、では、俺たちはここで失礼します」薄い色付きの男が橘さんに深々と頭を下げると、他の男たちもいっせいにさっと頭を下げた。橘さんは、ただ手を軽く上げただけだ。

男たちが去っていくと、橘さんは私に店を閉めるように言い、タクシーを捕まえて東大宮まで私をつれて行った。「どこ、いくんですか?」タクシーの中で橘さんに訊くと、「おまえにも迷惑かけたからな。礼させてくれや」と言った。十五分ほど走ったところで橘さんがタクシーを止めた。そして、アパートを指さして、「あの一番右端の部屋に行ってこい。俺はそこらで時間潰してるから。ま、小一時間ってとこかな」と言った。「誰の部屋ですか?」と訊くと、橘さんはにやにや笑いながら私を足で蹴る真似をして、「行け!」と手を振った。

痴人の愛

文庫本と畳

言われたとおり、アパートのその部屋に行くと、派手な化粧をして、ミニスカートを穿いた三十過ぎの女の人が待っていた。美人とはいえないがブスというほどでもない。どこかのスナックにいそうな感じの人だ。「橘さんから聞いてるわ。さ、どうぞ」女はそう言って私の手を取ると、部屋に招き入れた。そして、妖艶な笑みを浮かべながら、私の衣服を脱がしていく。私は催眠術にでもかかったようになすがままにされていた。そして、奥の部屋に連れていかれ、女は素っ裸になると、私に濃厚なキスをした。

私が夢心地で女の部屋から出てくると、階段の下で橘さんが待っていた。「あの女、よかったか?」橘さんが訊いたので、「あ、はい。すごく」と私は素直に答えた。「あの女、すげぇ声、出してな? ここまで聞こえてたぜ」橘さんは不機嫌そうな顔をしている。「やっぱ、聞こえてました? 俺も、あんまり声を出すから隣近所に聞こえるんじゃないかと思ってひやひやしてたんですよ」私が言うと、橘さんは何を思ったのかものすごい勢いで階段を上っていき、女の部屋に入っていった。と、「うぎゃっ!」とか「ううう~っ……」といううめき声とともにドタンバタンと何かが壁に当たったり、転ばされたりする物音が聞こえてきた。

その音を聞きながら、私の頭の中に突然、「痴人の愛」という谷崎潤一郎の小説のタイトルが浮かんできた。

その後

セピアの写真

その夜を境に、橘さんは私の前から姿を消した。梶さんの話によると、橘さんは組の抗争で敵の組のヤクザを殺し、逃走中だったのだそうだ。そんな橘さんを梶さんは匿い、仕事をさせていたのだから、梶さんも法律的には罰せられてもおかしくない。そして、梶さんは橘さんとのそもそもの出会いを話してくれた。それは十年ほど前のことだという。橘さんが傷害罪の刑期を終えて社会に戻り、働き口を探していた時にスーパーの店長をしていた梶さんが元組員で前科持ちであることを知りながら、正式な社員として雇ったのだという。

「歳も同じでしたしね。そんなに悪い人には見えなかったんですよ。それにもう組には戻りたくないって言ってましたしね。私は信じたんですよ。でも、やっぱり一度あの世界に入ると、なかなか抜けるのは難しいみたいですね。結局、人をひとり殺めちゃったわけですから」

そういったときの梶さんは、私がこれまで一度も見たこととがない本当に悲しそう顔をしていた。

私はそれから一年間、梶さんの店「あすなろ」でアルバイトをし、二年生になるのを機に大宮を離れた。ずいぶんあとになって知ったことだが、その後、梶さんは「あすなろ」というチェーン居酒屋を埼玉県に六店舗出したそうだが、何年もしないうちに倒産してしまい、行方不明になったそうだ。梶さんも、明日はヒノキになろう、なにものかになろうとし、がんばったのだが、結局、ヒノキにもなにものにもなれずに姿を消したということなのだろうか? だが、私は梶さんは今もきっとどこかまた「あすなろ」として生きているような気がしてならないのだ。いや、そうあって欲しいと私が願っているだけなのかもしれないが。

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