その女性はメモ帳を私に見せた。

“芽依ちゃんは動物好き 犬を飼いたがっている

春太くんは仮面ライダーが好き 将来の夢はヒーロー

薫ちゃんは、お歌を歌うことが好き まだ話せないが よく歌う”

真新しいシャツに腕を通し、鏡を見ながら髪を結う。エプロンを身につけて、メモ帳をポケットに忍ばせたあと、小さな声で呟いた。

「大丈夫」

本屋バイトデビューの日

本が並べられている写真

ロッカールームから出ると、狭い事務所には数人のスタッフがいた。おはようございます、と言った私の顔を見て、伊藤さん——私の教育係であるお姉さん、小柄で凛とした目つきが印象的だ——が眉をひそめた。

「あなた、どうしたのよその表情。そんな暗い顔をしていたら、接客業なんて務まりません。笑顔でいなさい、笑顔で」

伊藤さんは、何百枚と連なる注文伝票をバサバサとめくった。時折何かを書き込んでは、またバサバサとめくる。

ひとしきり注文伝票を整理すると伊藤さんは立ち上がって私の肩をポンと叩いた。

すみません、やっぱり緊張してしまっているみたいで、という言葉を飲み込み、はい、わかりましたと笑った。ぎこちなさが拭えない。鏡を見ずとも分かる、どこか引きつった笑顔だと。

「さ、売り場に行きましょう。今日は記念すべきあなたのデビュー日よ」

デビュー日、と繰り返すように私は呟いた。いいように言えば、その日は私のデビュー日だった。より分かりやすく言うならば、私がはじめてアルバイトをする日だったのだ。

階段の上に本がある写真

いつか本屋さんで働いてみたい。そんな風に思っていた私は、大学二年生になろうとしていたある日、よく行く書店のアルバイト求人を見つけた。二子玉川駅から降りてすぐ、大きなデパートの中にその書店はあり、幼い頃には親に連れられよく通っていた場所だった。高校、大学と年を重ねるうちに手に取る本も変わっていき、この本屋さんで働けたらな、などとぼんやり思っていた。

はじめて履歴書を書き、はじめて面接を受けた。店の名が印刷された紙袋やら、ブックカバー、よくわからないダンボールなどが大量に積み重ねられ陣取っている小さな部屋で、店長と私は話をした。店長は、緊張でうまく話せない私に、好きな本や作家の話を聞いてくれた。好きなものについて話していくうちに次第にリラックスし、少し笑って、いつの間にやら採用となっていた。

翌日には研修を受け、レジの使い方や、お客様との簡単なやり取りなどをロールプレイングをした。これがあなたのエプロン、これがあなたの名札よ、と渡されたものを眺め、私、本当に本屋さんになれたんだ、と少しうれしかった。

そこはもう店内

崖の先に女性が立っている写真

そして今日はいよいよ店頭に立つ。昨日まではまるで職場体験のようなワクワクさがあったけれど、本当に働くとなると話はまったく変わってくる。もともとすぐ緊張するタイプということもあり、実際にお客様の前に立って接客をすると思っただけで手に汗をかいた。何か言われたらどうしよう、ミスしてしまったらどうしよう。そんな考えが頭の中を駆けめぐる。

伊藤さんに声をかけられて事務所から出る。そこはすぐ店内だ。私の少し前を歩く伊藤さんは、いらっしゃいませー、と声をかけながらお客様の間をスイスイと進んでいく。私はどこか申し訳なさそうに、うつむきながら後をついていった。こんな私でも、お客様から見たら立派な店員だ。初めてのアルバイトだなんてことも、もともと緊張しがちだなんてことも、誰もわからない。一人の書店員でしかないのだ。怯えている私の内心など、誰も知る由もないのである。

そこそこ大きな書店ということもあり、レジの数は全部で8台。混雑時は、すべてのレジをフル稼働させても列ができる。時刻は13時過ぎ、ちょうど店内が混み合っている頃だった。

「しばらくの間は、私が後ろに付いています。シャキッと、笑顔でね」

伊藤さんはそう言いながら自身も背筋を伸ばした。私も釣られて背筋を伸ばし、小さく頷いてレジに立つ。こちらのレジへどうぞ、という伊藤さんの声が後ろから響くと、家族連れがぞろぞろと私の前へやってきた。

「お預かりいたします」

初めてのお客様から本を数冊受け取る。

絵本が2冊に、レシピ本が1冊。3,780円です。1万と780円お預かりいたします。7,000円のお返しでございます。ありがとうございました。客側としては何も気にすることのなかった一つひとつの言葉が、今ではまったく違う意味を持つ。金額は言い間違えてないだろうか、変な敬語になってないだろうか、お客様を待たせていたらどうしよう……。はじめてのアルバイト、はじめての接客業、すべての動作に不安がつきまとっていた。店頭に立っている以上、”はじめてのアルバイトで怯える私”ではなく、”この本屋の店員”でなければならないのだ。接客業のプレッシャーは、想像していた以上にはるかに重いものだった。

恐ろしいクレーマー

階段を登っている人がたくさんいる写真

私の不安とは関係なく、店内はよりいっそう混み合ってきた。

レジに並ぶ人の数も増えていく。まだー?と母親に聞く子供の声が響き、休日を楽しむ中学生たちは大声で笑い、すみませんこの本もお願いしますと走ってくる人がいる。静かにしなさいと怒鳴る親、相反するように泣き始める赤子、こちらのレジにどうぞ、と割って入るように店員たちは呼び、それをかき消すかのように電話も鳴り始めた。息つく暇もないまま、まるで機械にでもなったような気持ちで、次から次へと会計を行っていく。その間も電話が鳴り止まなかった。もちろん店内は今もなお混雑しており、列は途切れず、レジにいる店員たちはその対応を止めることはできない。

「ごめん、ちょっと私電話出るわ。お客様からのお問い合わせかもしれないから」

伊藤さんはしびれを切らし、私の後ろから離れ電話に出た。事件が起こったのは、そのすぐ次の瞬間である。

「どうなってんだよ、ふざけるな。どんだけ待たせるつもりなんだよ」

私のレジに来ようとしていた人を遮り、ある一人の男性が横からぬっと現れた。少し痩せ型のメガネをかけた中年男性だ。いたって普通の見た目ではあったが、ブツブツとつぶやきながら、時折自分の髪をぐしゃぐしゃとかき乱している。大声で怒鳴るわけでもなく、いたって普通のトーンで彼は話していた。私にしか聞こえないような声の大きさだった。それ故に、今何が起こっているのか、他には誰も気が付いていなかった。

「ずっとお客様を放置しておいてその態度は何?」

急に怒りの矛先を向けられた私は、訳も分からず、怖くて何も言葉が出なかった。何がどうなっているのだろうか?そしてどうして私は怒りをぶつけられているのだろうか?

「少々お待ちくださいの度を過ぎてるだろうが。俺がここでどんだけ待ってると思ってんだよ。客の言うこと聞かないでそれでも店員か?この本を早く持って来いって言ってんだろうが」

その男は静かにそう言いながら、くしゃくしゃになった新聞の切れ端を私に投げつけた。男の手汗で少し湿ったそれを、あまりにも急な怒りに戸惑いながらも開いた。いつかの新聞に小さく掲載されていた、新刊の広告らしい。

「さっさと持ってこいよ、何突っ立ってんだよ。まだ待たせるつもりかよ」

「申し訳ございません。すぐにお持ちいたします」

私はとっさにそう返したが、その本がどこにあるのか、ましてやその本の在庫があるのかすら分かっていなかった。そもそも昨日はレジ対応の研修しかしておらず、本に関するお問い合わせについてはまだ何も教わっていない。つまり、本の在庫の調べ方すらも知らなかったのだ。しかも店はかなり混雑しており、どの店員もお客様の対応に追われている。書店員としてここに立ち始めてまだ3時間ほどしか経っていなかった。

レジにいる店員たちは皆対応中だったので、私は事務所へと急いだ。

白い本棚の写真

「すみません、どなたか教えていただいてもいいですか。お客様がお怒りなんです」

私が事務所に入ったちょうどその時、客注担当の尾上さんがロッカールームから現れた。

「あなた、昨日研修に来ていた子よね。どうしたの一体」

「急に申し訳ないです。何が起こったのまったく分からないのですが、急に男の人が現れて、待たせすぎだ、本を持ってこいと」

「あぁ……こういうかなり混み合う土日にはたまにあることなの。びっくりしたでしょう」

尾上さんはそう言うと、私の手から新聞の切れ端を取り、事務所にあるパソコンですぐに調べ始めた。

「すみません。私まだ何も分かっていなくって、どうしたらいいのか分からなくて」

「そりゃそうよ、昨日来たばかりだもの。本の在庫を調べるときは、この専用の検索ツールを使って。タイトルで検索してもいいけれど、ISBNコードが分かるなら、それで検索した方が一発で分かるわ。今回のは1冊だけあるみたい。もしかしたら棚じゃなくて、下のストック棚に入っているのかもしれない。見に行きましょう」

尾上さんはそう言うとすぐに立ち上がり、こっちよ、と私を案内した。事務所を出て、漫画売り場、雑誌売り場を抜け、美容やファッション系のエリアを通り過ぎ、私たちはビジネス書のコーナーにたどり着いた。今話題になっている本が平積みにされており、書店員おすすめの本が数冊面陳——背表紙ではなく表紙を見せて陳列する、書店によくあるやり方だ——されている。

「私は下のストック棚を見るから、あなたは上の棚にないか確認してちょうだい」

「分かりました」

尾上さんは、普段は収納されているストック棚を引き出し、ぎっしりと敷き詰められた本を一冊ずつ確認した。私は隈なく棚をチェックしたが、その本は見当たらなかった。

「棚には出てないみたいです」

「やっぱりね。あった、これよ」

尾上さんが見つけてくれた一冊を手に取る。

「ありがとうございます!本当に助かりました」
「いいのよ、早くお客様にお渡ししてあげて」

本を開いた写真

私はレジへと急いだ。私が入っていたレジには伊藤さんが立っており、先ほどまで怒っていた男性と何か話をしているようだった。

「伊藤さん、すみません。こちらのお客様は」

伊藤さんは、張り付いたような笑顔を見せながら私を見た。そして私から本を受け取り、大変お待たせいたしました、こちらのお品物でお間違ないでしょうか、と男性に尋ねた。

「遅いよね。遅すぎるよね」
「はい、大変お待たせしてしまい申し訳ございません」

「これってどうやって落とし前つけてくれるんですかね?」

その男性は、先ほどと変わらずいたって冷静に、しかし棘のある言い方で怒りをぶつけ続けていた。

「ご迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ございません」

伊藤さんは何度も頭を下げた。私も横で頭を下げていたが、待たせてしまったことはこちら側が悪いとわかっていても、どうして私たちが怒られているのだろう、といまだに理解できずにいた。握った手のひらに爪が刺さった。

「これだけ待たせておいて、謝るだけなんですか?」

「誠に申し訳ございません。お待たせしてしまったことに関しては、こちらの対応力不足でございます。申し訳ございません」

伊藤さんが繰り返し謝り続けていると、その男性は諦め、いくら?と尋ねた。1,580円でございますと答えると、そのまま会計となり、その後何も言わずに帰っていった。伊藤さんはレジに「休止中」のプレートを置き、私を事務所へと連れて行った。

「伊藤さん、あの男性、列にも並ばず急に割り込んで」

伊藤さんは、メガネにかかった前髪を人差し指でかき上げながら少しため息をついて、

「接客業ってね、とっても理不尽な時があるの」

その声から、私が本を探している間に、さまざまなやり取りがあったことが容易に想像できた。

「はじめて接客業をするあなたにとってはショッキングなことかもしれないけれど、理不尽なことってたくさんあるのよ。お店側はまったく悪くないのに謝らなければならない、こちらはまったく間違っていないのになぜか怒られる。不思議よね」

「伊藤さん、本当に申し訳ないです。私のせいで」

伊藤さんは私の目をじっと見て、少し黙っていた。その後、気が抜けたかのように笑った。

「いいのよ。あなたをサポートするのが私たち社員の役目なの。何かを聞いたり、頼ったりすることに、罪悪感を感じる必要なんてないわ。私たちは同じ書店の店員で、いわば仲間なんだから。遠慮なく頼りなさい。遠慮なく失敗しなさい」

私は伊藤さんのその言葉を聞いてどこか許されたような気持ちがした。ありがとうございます、と消え入るような声で言いながら、私の視界がにじんでいく。いつの間にか涙を流していた。

急に現れたクレーマーの怖さや、一緒に働く人たちへの感謝で、感情がごちゃごちゃと渦巻いていた。伊藤さんは、私が落ち着くまでそばに立ち、背中をさすってくれていた。

ある女性

絵本の写真

この出来事から数週間後、いつの間にか春も終わり、私が少しずつ書店員としての仕事に慣れてきたころ。ある女性が店に訪れた。あの出来事があった日とは打って変わって、書店らしい均一な静けさのある、穏やかな初夏の日のことだった。

「すみません、ちょっといいかしら。手伝っていただきたいことがあるの」

その女性は、少し困ったような、一方でどこか嬉しそうな表情で私に言った。美しいグレーヘアーをきれいにまとめ、ネイビーのセットアップに、かわいらしい花のブローチをしている。小さなハンドバッグを抱え、片手にはメモ帳を握りしめていた。私はちょうど、電話でのお問い合わせに答え終わった時だった。

「どうされましたか?」

私がそう聞くと、その女性はメモ帳を私に見せた。

“芽依ちゃんは動物好き 犬を飼いたがっている

春太くんは仮面ライダーが好き 将来の夢はヒーロー

薫ちゃんは、お歌を歌うことが好き まだ話せないが よく歌う”

「娘から聞いた、孫たちの好きなものよ。聞いたと言っても、そういえばこんなこと言っていたわよね、と思い出しながら書いたの」

私が頷くと、その女性は続いて説明し始めた。

「今度、孫たちに初めて会うの。家族って、いろいろあるのよね。本当に」

彼女がふと目をそらす。

「それでね、本をプレゼントしようと思って。私が子供の頃の話になってしまうけれど嬉しかったの。きれいなリボンに包まれた、大きな絵本が。今まで見たことのないような世界が広がっていて、何度だって繰り返し読んだわ。正確には、読んでもらっていたの。母にね」

「わかります。私も同じような思い出があります」

「わかっていただけてうれしいわ。そこで聞きたいのだけれど、本のプレゼントってもしかして古いかしら」

「古いだなんて、とんでもないです。今でも多くのお客様が、プレゼントとして本を買って行かれますよ」

私がそう言うと、その女性は少し顔を近づけ、小さな声でこう言った。

「ひとつだけお願いがあるの」

「なんでしょう?」

「私が孫たちについて知っているのは、そのメモにある情報だけ。何をあげたらいいかなんてさっぱりわかりゃしないのよ。だから、プレゼント選びを手伝ってほしいの」

私は笑顔で、喜んでと答えた。家族にとっての大事なイベント。すてきな本のプレゼント。手伝わない理由を探す方が難しかった。

素敵なプレゼント

芝生に家族の影が写っている写真

その女性は、すてきな本を探している間、家族と何があったのかをポツリポツリと語った。

娘さんが大学四年生の時、子供ができたから結婚すると報告を受けたそうだ。お相手は高校時代の担任教師。高校生の頃から想いを募らせ、大学生になってから親交を深めていたのだという。突然の報告が受け入れられず、旦那さんとともに結婚に反対した。しかしそれが裏目に出たのか、娘さんとそのお相手は駆け落ち。連絡も取れない状況となり、数年が過ぎた。

娘と連絡が取れなくなり、7年が過ぎようとしていた今年の春。娘さんからのお便りが届いた。若き日の過ちへの謝罪、後悔、そしてこれまでの感謝。子供たちの写真とともに、新しい連絡先が書かれていたという。

それまでの怒りや苦労なんて、一瞬で忘れてしまったのよ。親ってどこまでも親バカなの。そう言いながら笑うその女性を見て、私は幸せな気持ちになった。

「芽依ちゃんにはこちらはいかがでしょうか。ある小さな女の子と、新しく家族になった一匹の犬とのお話なんです。昔から人気の名作ですよ。少し定番すぎるかもしれませんが」

「いいじゃない。長く愛されているものは安心できるわ」

「春太くんにはこの本がいいかもしれません。いくつかボタンがあって、音がなるんです。乗り物について学ぶことができるんですよ。あとはこちらも。男の子がヒーローを目指すお話なので、ぴったりかと」

「今はいろいろあるのねぇ。どちらもあげようかしら」

「薫ちゃんにはこの本がおすすめです。さっきの本と少し似ているんですが、童謡がいくつか収録されていて、ボタンを押せば聴けるんです」

「あらやだ、ぴったり。これにしましょう。他にもいいのはあるかしら」

あれもこれもと話しているうちに、いつの間にかカゴの中には本が山積みになっていた。3人にそれぞれ4冊ずつ。芽依ちゃんはかわいらしい花柄、春太くんは乗り物柄、薫ちゃんはクマさん柄の包装用紙で包み、赤、青、ピンクのリボンで思いを閉じ込めた。

「すてきねぇ。子供の頃を思い出すわ」

「お孫さん、きっと大喜びしますね」

「だといいけど」

そう言って笑った。私もつられて笑った。誰かのために本を選ぶ。それがこんなに素晴らしいことだなんて、幸せなことだなんて。この本屋でアルバイトをしなければ、気づけなかったことかもしれない、と思った。

「今日はどうもありがとう。助かったわ」

私は深く頭を下げて見送った。その女性は、家族との新たな物語を築いていく。その中の1ページに、この本屋での出来事も入るのかもしれない。そんなことを思いながら。

家族の絆

ひまわりの写真

「あなたにお客様が来てるわよ」

もうすぐ梅雨も始まろうかとしていたある日。まだ出勤したばかりで事務所にいた私に、伊藤さんがそう言った。お客様?と言いながら、エプロンの後ろのボタンを締めた。どこかぎこちなく違和感のあったエプロン姿も、その頃にはすっかり馴染んでいた。

「いつの間にか、立派な書店員ね」

伊藤さんの顔はどこか誇らしげだ。

「お客様が絵本売り場の近くで待ってるわ。お待たせしちゃダメよ」

私は少し照れ笑いを浮かべながら、急いで売り場に出た。

「お久しぶりです、お姉さん」

絵本売り場で待っていたのは、あの時の、一緒に本のプレゼントを選んだ女性だった。あの時と同じようにグレーヘアーを美しくまとめていたが、片手にハンドバックを、そしてもう片方の手には、小さな子供の手が握られていた。

「お客様!また来てくださったんですね!もしかして、春太くんですか?」

私がそう尋ねると、その女性はあの日と同じ笑顔を浮かべた。

「そうなの。かわいいでしょう。芽依も薫も来ているわ。芽依はまた新しい本に夢中になっているみたい」

そう言った目線の先には、大きな動物図鑑に目を輝かせる女の子がいた。ツインテールを揺らして、隣に立つ父親らしき男性に一生懸命話している。このどうぶつは、あたたかいところにしかいないの。だから、にほんではかえないのよ。とおくのあたたかいところにいるの。かわいらしい声がこちらまで届いていた。

「芽依、あまり大きな声を出さないで」

ベビーカーを押しながら注意する女性は、おそらく娘さんだろう。

「ベビーカーに乗っているのが薫よ。今は眠っていて静かだけれど、起きている時はそれはもう元気なの。何がなんだかわからない歌をいつも歌っているわ、ご機嫌な時はね」

薫ちゃんは、その寝息が聞こえそうなほど、すやすやと眠っていた。ほほの膨らみに挟まれた小さな口が少しだけ開いていてとてもかわいらしかった。

「将来は歌手になるかもしれませんね」

会話に花を咲かせていると、娘さんが私に軽く会釈をした。

「よく眠る子なんです」

話の中では娘さんであったこの女性が、今でははっきりと母親となり、私の目の前で自分の子供を見つめている。私はずっとこの家族のそばにいたわけではないのだけれど、一つの家族の長いストーリーを読んできたかのような感慨深さを感じていた。

春太くんは、おばあちゃんの手を引き、知育玩具のコーナーへと駆けていった。走っちゃダメよと言いながらも、楽しげに手を引かれていく姿が楽しそうだ。

「母から聞きました。この子たちへのプレゼントを選んでくださったんですね」

娘さんは、穏やかな口調でそう言った。声が似ているな、と私は思った。

「私のチョイスでいいのか悩んだのですが」

「ううん、とっても喜んでいました。特に芽依は、すっかり気に入っているんですよ」

その時、このほん、としょかんでよんだことある!という声がちょうど耳に入ってきた。私と娘さんは思わず笑った。

「それで、よかったらこれ皆さんでどうぞ」

私に渡されたのは、とある有名なパティスリーの包みだった。

「みんな感謝しています。私たち家族が今こうしていられるのは、あなたのおかげでもあると思うから。家族って、いろいろあるんですね、本当に」

本当にという言葉にやはり親子なんだなぁと思いながら、私も「本当に」と繰り返した。

「ありがとうございます、まさかこんな。私たちがプレゼントをいただけるなんて」

私がそう言うと、春太くんがこれなあに?と言いながら私の足元へやってきた。すてきなプレゼントをいただいたの、と笑顔で返すと、ぼくもほしいなと呟いた。おばあちゃん、ぼくもすてきなぷれぜんと、またほしいな。

私にとってはお客様だったその女性は、春太くんにとってはおばあちゃんだ。おばあちゃんとしてのその女性は、娘さんによく似た穏やかな声で、「今度は何をあげようかしら」と言っていた。

奥の絵本コーナーにいる家族を眺めながら、

「おばあちゃんって呼ばれるたび、なんだか不思議な気持ちよ。でも、悪くないわね」

「とってもすてきなご家族ですね。あたたかくて、賑やかで」

そうでしょ?とその女性は笑った。春太くんはずっと、つぎのプレゼントはどうしよう、どうしようと考えているようだった。

「素敵な本を選んでくれてありがとう。みんなが喜んでくれたのは、あなたのおかげよ」

そう言うと、春太くんにまた手を引っ張られ、絵本コーナーの奥へと駆けていった。幼き孫たちに振り回されるその姿は、その女性にとっては諦めかけていた夢だったのかもしれない。でもきっと、家族の絆というものは、諦める、諦めないの範疇にはないところにある。もっと深く、もっと強く、私たちの考えもつかないところにあるのだ。

あとがき

ペンと紙の写真

本屋には今日も、多くの人が訪れている。そして誰しも、さまざまな目的を持って本を買いに来ている。

好きな人が好きと言っていたあの本、売っているかな。母親が読みたいと言っていたあの雑誌は、もう発売されているだろうか。そろそろ子供に絵本を読ませたいけれど、何を買おうかしら。あの話題のビジネス書、僕も読んでおこう。

いろいろな人のいろいろな思いが、本屋には集まっているのだ。

たかがアルバイト、されどアルバイト。お客様にとっての私は一人の書店員であり、彼らが抱えている思いに、応える義務がある。

「いらっしゃいませ、どんな本をお探しですか」

今日もまた、誰かが誰かのことを思って、本を探しているかもしれないのだから。

こちらの記事もオススメ!
こちらの記事もオススメ!

コチラの記事もおすすめ!

JOBLISTで求人を探す