会議室の扉が開いて、一人の老人が入ってきた。

膝下までのロングコートを着て、チャコールグレーのハットを被り、目元は薄い色のサングラスで覆われていた。

その人がFriday元編集長のマナベさんだった。

ベンチャー校正会社のアルバイト

メモ用紙と万年筆の写真

一年間の浪人生活が無事に終わり、入学式を前にした三月。十九歳の僕はアルバイト先を探していた。

小説家になるという固い意志があり、だからできれば文章を書くことに繋がるようなアルバイトがしたいと考えていた。出版社でアルバイト、本屋でアルバイトという案がすぐにひらめいたが、その選択肢に進むのはなかなか気が進まなかった。小説家になりたいという考えから出版社、本屋という発想に行き着くのはあまりにも安直すぎたからだ。文章を書くことに繋がり、かつ、いわゆる普通の道と違う要素もあるアルバイトという贅沢な条件を僕は求めていた。だから僕のアルバイト先探しは最初から難航していた。

そんなある日、入学祝と称して、近所に住むお世話になっているアニメ脚本家のヤマダさんがご飯をおごってくれた。その際アルバイトの話になり、僕は自分が求める贅沢な条件をヤマダさんに思い切って打ち明けた。すると「それならいいところがあるよ」と僕にとある会社を教えてくれた。

それは高田馬場にあるZ社というベンチャーの校正会社だった。ヤマダさん曰く、もしも脚本だけで食っていけなかったらここでアルバイトしようと考え、そのZ社のホームページをお気に入り登録していた、とのことだった。ヤマダさんは幸いにもそこでアルバイトをする事態には陥らなかったが、僕の話を聞いてそれならばと教えてくれたのだ。

しかし「校正」というものが当時の僕には一体何なのか分からなかった。その場で調べると、校正とは文章の誤字脱字や用法、言葉遣いを修正する仕事とのことだった。これはいいと即座に思った。僕の求める条件にぴったりではないかと。

家に帰り、改めてZ社のホームページを見てみると、アルバイト募集のページがあった。僕は次の日には履歴書を作成し、Z社に送った。数日後にZ社から電話が掛かってきた。

「履歴書を送って頂きありがとうございます」
「はい」
「大学生ですか?」
「いや、正確に言うと、あとひと月で大学生になります。いまは浪人生と大学生の狭間です」
「……なるほど。とりあえず、明日面接に来て頂けますか?」
「はい」

翌日面接に赴くと、社長が出てきた。眼鏡をかけ、歯並びは悪く、狸のようにお腹が出ていた。ベンチャー企業の社長というと、僕の中ではヒルズ族と呼ばれていた人たちが頭の中にあったので、それとは真逆の風体で出てきたそのおじさんに内心驚いたが、顔には出さないように努めた。

「社長のサワダです」
「湯田です、十九歳です」
「どうしてうちに来たの」
「小説家になりたくて」

間髪入れずにそう答えた。文字として書き起こすと、明らかにちぐはぐな会話だけれども、まずはこれをちゃんと言わなくてはと考えていた自分にとっては満点の回答だった。

もちろん豪快に笑われた。けれどもサワダさんの瞳は爛々と輝いていた。

「いいね、若いね、面白いね」

そのようにして僕は無事アルバイトとして採用されることになった。そしてその面接の終わりに、Z社が主催している出版企画会議の話になった。

「講談社のFriday元編集長のマナベさんという方が座長で、月に一回編集者が集まって企画会議をしているんだけど、手伝いとして行ってみる? 明日なんだけど」
「はい、行きます」
即答した。

講談社のFriday元編集長

サングラスの男性の白黒の写真

次の日、夕方の四時半にZ社に行くと、僕を待っていたのはゴンダさんという細身で端正な顔立ちの四十代のおじさんだった。ゴンダさんは元大手広告代理店の方で、社長のサワダさんに誘われZ社に転職したとのことだった。

「あなたは何がしたいの?」
自己紹介を済ませると、唐突にゴンダさんは僕に尋ねた。
「小説家になりたいです」
僕がそう言うと、数秒静かに僕の目を覗き込んだ後、大きく笑ってこう言った。
「若いね。それなら企画会議に参加するのはいいかもね」
その笑った顔のあたたかさに僕は安堵した。図々しさの塊のような僕ですらいささか緊張をしていたし、怖れをなしていたのだ。それがその笑顔で少しほぐれた。
「じゃあ行こうか」
僕はゴンダさんと共に、出版企画会議が開催されるカフェに向かった。

カフェの小さな貸会議室にはまだ誰も来ていなかった。僕とゴンダさんは末席に座り、他の人たちが来るのを待った。

「とりあえず、誰か来たら水を渡すのと、ワンドリンク制だからオーダーを取って。手伝いと言ってもやることはそれぐらいかな。多分時給換算では給料は出ないけど、この後の飲み会代は、あなたは払わなくていいから、それがお給料だと思って」

僕に異論はなかった。水を配って注文を取るだけで時給が発生したら、そんな楽な仕事はない。それにここにはそんなお金を求めて来ているわけではないのだ。

それからしばらくは雑談をして過ごした。僕もゴンダさんもずっとサッカーをやっていて、お互い強豪校にいたからその話で盛り上がった。やることも少ないし、気さくに話ができる人もいて、何とかなりそうだなと僕は高をくくっていた。しかしそれは大きな間違いだった。

会議室の扉が開いて、一人の老人が入ってきた。膝下までのロングコートを着て、チャコールグレーのハットを被り、目元は薄い色のサングラスで覆われていた。その人がFriday元編集長のマナベさんだった。

まるでヤクザの密会

線香の煙の写真

ゴンダさんが手短に僕を紹介してくれた。ハットを脱ぐとオールバックで、サングラスの隙間から品定めするように僕を見た。鷹のような目とはこういう目のことを言うのかと実感した。それくらい鋭い眼光だった。

「ああ」と低い声でゴンダさんは呟いた。

そうこうしているうちに、五、六人が一斉に入ってきた。僕は水を配るのと、注文を聞くのとで忙しくなった。僕が全員分のオーダーを店員に伝えると、会議が始まった。

参加していたのは僕とゴンダさんを含めて、八人ほどだった。四十代から五十代の方々が中心で、一番歳が低くても三十代で、それもたった一人だった。十九歳という年齢の僕は、それだけで浮いている存在だった。

しかもみんな強面だった。近寄りがたい雰囲気を発し、常に四方に喧嘩を売っているような目つきだった。こんな人たちが本を作っているのかと恐ろしくなった。はた目から見たら、やくざの密会か何かに見えなくもなかった。間違った場所に来てしまったのではないかと思ってしまうほどだった。けれどもそんなことはなかった。僕はZ社からゴンダさんと一緒にここまで来て、いまもゴンダさんは僕の隣に座っているのだから。

先ほどまで僕の心にあった安堵はもはやどこかへ消え去り、僕の身体は緊張でこわばっていた。気を抜いたら喰われてしまう、そう思った。

小説家になりたいです

火のついたマッチの写真

マナベさんの簡単な挨拶で会議は始まった。その挨拶が終わると、マナベさんは僕に自己紹介を促した。心臓が胸から出てきそうなほど大きく脈打っている。手足は震え、身体中から汗が噴き出していた。けれどもひるんでいる場合ではなかった。僕は口を開かねばならなかった。そして僕が言わなければならないことはたった一言だった。

「小説家になりたいです」

開口一番僕はそう言った。沈黙がしばらく続いた。誰も口を開かなかったし、これまでのように笑って面白がってくれる人もいなかった。やがてマナベさんが口を開いた。

「それならば、二つだけだ」とマナベさんは言った。

「まず、小説はたった一人だけのために書くこと。書くときに、届けたい誰かを、感動させたい誰かを、一人具体的に想像すること。目の前にいるたった一人の心を動かせないような小説には何の意味もないし、そんなものは誰も読まない。逆に、たった一人でも面白いと言ってくれる、好きだと言ってくれる物語を書くことが出来れば、他の人にも読んでもらえるし、同じように思ってくれる」

静かに、淡々と語られたその言葉は、力強く僕の胸に迫った。十九歳で、村上春樹や伊坂幸太郎のような「たくさんの人に読まれ、売れること」を夢見ていた僕にとっては、その「たった一人のための小説」は出鼻を挫かれるような思いもあったが、確かにマナベさんの言う通りだと思えた。それは講談社でトップまで上り詰めた編集者の言葉なのだ。まだ何も持たない僕とは違う。マナベさんのこれまでの人生がその言葉に重みを与えていた。

「そして二つ目。とりあえず何か書いたら持ってこい。話はそれからだ」

僕の居場所はそこになかった

静かな海の写真

他の参加者の方々も簡単な自己紹介をしてくれた。フリーで編集者をしている方もいれば、遠藤周作の担当編集をしていた方もいた。つまり、僕がやってきたこの出版企画会議には「本や雑誌作り」もしくは「文学」というものの第一線で何十年も生き続けてきた人たちばかりだったのだ。さらに、その出版企画会議ではゲストを呼ぶことがあった。講談社文芸文庫を創設した方や、松本清張や三島由紀夫、川端康成の担当編集をしていた方などがゲストで訪れた。

十九歳という若さで、そういった環境に飛び込み、彼らの人生観や文学観を生で知ることがどれほど価値のあることだったのかは言わずもがなだが、逆にそれは僕の無知や未熟さをこれでもかというほど浮き彫りにした。

幼稚園児の頃から本を読み続けていた僕は自分の読書量にある程度の自信があった。ヘルマン・ヘッセもドストエフスキーも夏目漱石も読破している大学生は、文学部の大学生となり、辺りを見回してもほとんどいなかった。だからそういう小説を読んでいると話せば、すごいとよく言われたし、僕は優越感に浸ることができた。

しかし、その会議でそういった作家の名前が出ることはほとんどなかった。会議において、古典と呼ばれる有名な作家の小説を読んでいることは当たり前のことなのだ。古典という土台の上に、彼らはひたすら自分たちの「本」を作り続けてきたのだ。だから僕はその会議にいても、どんな言葉も発することは出来なかったし、彼らの話を理解することもできなかった。知らないことだらけだった。

丸山健二は読んだことあるか? 大庭みな子は知っているか? 尾辻克彦は? 小沼丹は? 石川淳は? 多和田葉子は? 車谷長吉は?

無数に飛び交い、問い続けられる作家の名前に対して、僕はすべて「知らないです」と言うしかなかった。「知っている」「読んだことがある」と一つも言うことができない状況は初めてだった。そして僕の「知りません」が積もれば積もるほど、その会議での僕の居場所は小さくなっていった。

もちろん、生きている時間が違うのだから、彼らの読書量の方が多いのは当たり前なのだが、そんなことは関係なかった。僕が書こうとしているものだって、ひとたび小説という舞台の上に載ってしまえば、彼らのような人たちの目を通る。比較されるのは、彼らの口から溢れるように出てきた作家たちやその作品なのだ。発表された年や、自分の年齢などには何の意味もない。彼らが書いてこなかったもの、書きえなかったものを裸の小説として僕は書くしかないのだ。知らないでは済まされない。

僕は読まなければならなかった。

すべてを捨てて本を読む

カメラのレンズ越しの道路の写真

それから会議のたびに話題に出てくる作家や作品名を片っ端から読んでいった。大学生になり世間はサークルで浮かれ友達をどんどん作っていく中、僕はサークルにも入らず交際費を削り、もくもくと本を読んだ。また、ご飯を食べる回数も一日三食から、一食か二食に減らし、その浮いた食費で、本を買い漁った。

そんな本漬けの日々は、僕を、いわゆる華やかな大学生活から遠ざけた。サークルにも入らず、クラスでも友達を作らず、入学して浮かれ騒ぐ男女の仲睦まじい笑い声の真っ只中で、僕は独りぼっちだった。冷たい感情が押し寄せてくると、僕はその波を「読書」と「書く」という行為で、無理矢理押さえつけた。休み時間も授業中も、僕は常に独りで言葉の海に沈み込んでいた。

それでも追いつけない。僕が、彼らが口に出した本を一冊読んでいるうちに、彼らは今売れている本を網羅し、そしてそれらに関連する本まで読破していた。だから僕の「知らない」リストは長くなっていくばかりだった。読んでも読んでもそのてっぺんが見えることはなかった。雲の上かと思うくらいの高い壁に気が遠くなった。止まることをやめない老人たちに、十代の若造が追いつけることなど不可能だった。

一歩一歩前進していく

しかし、そんな日々を続けて少しずつ変わっていったことがあった。

月一回の会議のときに必ず一冊は以前の会議で話に出ていた本を読み、そのことについて話すと僕は心に決めていた。それを会議のたびにやり続けた。

すると「お前そんな本まで読んでいるのか」と言われるようになった。ある意味これは彼らが歳をとっていたおかげでもある。前回の会議で自分が口にした本の名前なんて彼らはひと月後まで覚えていないのだ。

もちろんそういった本に対して僕が話すことに「お前はまだまだ何も分かっていない」と言われるのが常だった。それでも嬉しかった。話ができるのだ。それまでは話すらできなかったのだから。

階段を登っている写真

マナベさんの言葉

そんな日々を一年ほど続けたある日、僕は初めてちゃんと書き上げた小説を出版企画会議に持っていき、みんなに読んでもらった。原稿用紙二百枚を超える長いものだ。自信はあった。これまで知らなかった多くのものを読み、それらが自分の血肉となっているはずだと確信を持っていた。

「正直、小説というものにまだまだ至っていない。これじゃあ、作文の延長線上だ」
マナベさんはそう言った。

僕の中にあった自信はいとも簡単に砕け散った。今まで読んできた本は何だったのか。遊びにも行かず、食費も切り詰めてやってきたことは何だったのか。

膝から崩れ落ちそうだった。

そんな僕をじっと見つめながらマナベさんはこう続けた。

「けれども、二つの点からお前に才能があることだけは認める。一つ目はこれだけの量を書き切ったこと。小説家になりたい奴なんてごまんといる。でもその中でまずそもそも書き切れる人間はかなり少ない。お前はその門は突破した。二つ目は、俺が最後までこれを読んだことだ。俺は本当につまらなかったり、読むに耐えない文章だったら最後まで読まない。二百枚以上あるはじめて書いた小説で、俺は最後まで読まされた。お前の書く物語や文章には人に読ませる力がある。この力を持っている人間もかなり少ない」

その言葉をどう受け止めていいかわからず、僕はきっとぽかんとした顔でマナベさんを眺めていたと思う。だがしばらくして自分の顔が自然と笑みに引っ張られていくのを感じた。しかしあからさまな笑顔を見せるのが恥ずかしかった。小躍りしてしまうほどに嬉しい気持ちを悟られまいと僕は必死に堪えていた。

「次からは短いものを書け。短いものをたくさん書き切って、技術を上げろ」
それは僕がマナベさんからもらった次のアドバイスだった。

その日の企画会議後の飲み会でも、みんな口々に僕の書いた小説について話をしてくれた。僕はこのときはじめてこの企画会議に自分の居場所ができたような気がした。自分がやってきたことが無駄ではなかったと確信できた。

今振り返ってみて

コーヒーとメモの写真

僕は十九歳で出版業界のトップの人たちに出逢えた。

確かにその人たちの前では僕の力量なんてノミみたいな小さなものだったけれども、無謀にもその人たちに追いつこうとあがき続けた結果、少しだけ認めてもらうことができた。

今もし当時の記憶を振り返って若い人たちにアドバイスするとすればこう言いたい。

「何か成し遂げたいことがあるのであれば、身の程なんてわきまえず、トップの環境に飛び込んでしまえばいい。そこに居続けようと必死であがいていれば、成長なんて勝手にしているものだ」

下も横も見る必要なんてない。ただ上だけを追い続ければいいのだ。

多くのすごい人たちに揉まれて成長させてもらった僕は、今でも強くそう思っている。

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