ニワトリのような動きをする挙動不審な自称リーダーは、仕事が早く終了すると「今日の作業時間は〇時間〇分〇秒だから」と何かに憑依にされたように、誰彼構わずしゃべりかけていた。
当時の私は高校時代に覚えた麻雀を趣味とする昭和の香りただよう大学生であった。近代麻雀を愛読書とし、学友と朝まで麻雀談議を繰り広げるなど、親のため息が聞こえてくるような生活を送っていた。
ある日そんな私にハプニングが訪れる。
それは、もうじき夏休みを迎えようかという平日の夜だった。その日は前期試験が午前中で終わったため、例のごとく大学の友人達と麻雀を打っていた。私は仲間内では一応勝ち組だったが、このところ調子を崩していた。元々、貧乏学生なうえに負けがこみ、オケラ街道をばく進する日々だった。
その日もマイナスにへこみ、さらなる節約を覚悟しながら帰路についた。しかし、家に着いて後ろポケットを探ったと同時にハッと青ざめた。財布がない。どうやら、なけなしの全財産が入っていた財布を落としてしまったようなのだ。完全に詰んでしまった。
以降、金欠で首が回らなくなった私はこれまでの人生で縁のなかったアルバイトという未知の領域に身を投じることとなった。
変人たちのいる郵便局
その翌日からアルバイト探しに奔走し、最終的には郵便局の仕事に応募した。
勤務時間は夜10時から朝6時までの深夜帯だったが、元々夜型の生活に加え、ちょうど夏休みに入る時期だったこともあり全く問題ないと思った。
人生初のバイト面接に緊張したものの、面接官はとても緩い感じの対応で、あっけなく採用が決まり拍子抜けしたことを覚えている。
だが入ってみて、いきなり驚いた。
世間知らずの私はアルバイトには学生または若いフリーターしかいないものだと思い込んでいた。ところが、約3割は30代以上の社会人で、そのほとんどが中高年であった。あとで小耳にはさんだ話によると、その多くは正規社員になりそびれたりリストラにあったりしたという。
さすがに深夜の時間帯に生息するだけあって、メンバーにはクセの強い面々が揃っていた。
ニワトリのような動きをする挙動不審な自称リーダーは、仕事が早く終了すると「今日の作業時間は〇時間〇分〇秒だから」と何かに憑依にされたように、誰彼構わずしゃべりかけていた。
また、身長150㎝ほどの50歳ほどの男がいた。ロン毛風に髪を伸ばしていたが、どう見てもゲゲゲの鬼太郎にしか見えなかった。もちろん、あだ名は鬼太郎である。
その他にも、深夜にもかかわらず異常なまでのボリュームでラジオを聴く、ラジオ1号・2号と呼ばれるコンビなどがいた。
まさしく、そこは様々なタイプの人間が集まる場所だった。
一方で、学生達は、わりとまともな連中だったように思う。イマドキの学生という感じではなく、将棋や麻雀を嗜むオヤジ臭いキャラ揃いだったのは、私にとって幸運だった。
きつめのパーマをかけたミニラ顔や、そのパシリにされていた風俗マニア。大学院に通っている体は小さいが器は大きく優しい人、お調子者だが人気者の六大学生、その彼とあうんの呼吸で皆を楽しませてくれる私と同じ小学校出身者など、気さくな先輩方のおかげで職場にすぐに溶け込むことができた。
郵便局のバイトはお役所仕事
業務内容はダイレクトメールやハガキ、少し大きめの封書などの郵便物を町名ごとに区分する仕分け作業だった。
大型の荷物からスタートし、終わったら小型郵便に取り掛かるのがルーティンである。深夜0時になると台車に積んだカゴの中に、町名ごとに区分された郵便物を回収する。
年末年始になると、ひたすら年賀はがきの仕分け作業のみを命じられた。最初の頃は、これでは通常の郵便物は届かないのでは? と思ったものだが、おそらく日中のアルバイト職員が仕分けしていたのだろう。
夜中の勤務ということもあり時給も深夜割増が加算される上、業務内容も割と楽で比較的恵まれていた。しかも8時間拘束のうち長短合わせて約2時間半ほどが休憩時間だった。
休憩時間は前後半に20分ずつの有給休憩と、午前1時から1時間ほど休憩を設けているのだが、皆なぜか1時10分前には仕事を中断し、郵便物が運ばれて来る2時半過ぎまで休憩していた。郵便物を運ぶトラックが遅れた時など、まだ仕事が残っていても平気で3時過ぎまで休んでいた。また、土日に祝日が前後して休みが続くと郵便物が劇的に減るため、半分以上の時間が休憩になることも珍しくなかった。
それでいて、通常の深夜割増とは別に祝日手当まで加算されるのである。特に、ゴールデンウイーク期間は1時間もかからずに仕事が終わってしまうので、時給に換算すると1万円近くにもなった
つくづく、世の中の郵便物は企業活動によるものが大半なのだと身に染みた次第である。それはさておき、これではお役所仕事と叩かれるのも無理はない。
徐々に破壊されていく腰
夏休みや春休みが終わりを告げ、学校が始まると当然ながら授業に顔を出さなければならない。私は実家から都内の大学に通っていたのだが、家が千葉にあるため通学に1時間半以上かかった。ここまで通学時間がかかると、週3~4回のバイトとはいえ夜10時~朝6時まで働きながら、学業と両立させるのはなかなか骨が折れた。
また、郵便局の仕分け業務は勤務時間中、ずっと立ち通しである。高校時代に腰を痛めた経験がある私が、昼間は学校に行き、深夜から早朝にかけて労働するのは若かったとはいえ、それなりに負担がかかり腰痛が再発してしまった。
そして、それに追い打ちをかけるように、翌年から作業の効率化を図るために謎の機械が導入されたのだ。
メインは機械による仕分けとなり、どうしても住所が読み取れなかったり、記載に誤りがあったりする郵便物だけを従来通り手区分で対応することとなった。
機械で読み取られた郵便は町名ごとに区分棚に分けられる。あっという間に棚が一杯になるので、休む間もなく郵便をそこから抜き取りゴムでまとめて、これまた町名ごとに割り振られたカゴに入れる。
区分棚は背伸びして取るような高い位置から、腰をかがめて取らなければいけないほど低い位置にまで広範に設置されていた。古株の社会人連中はやる気がないので負担が大きい業務をやるはずもなく、我々学生たちが任務にあたるしかなかった。私は頻繁に腰を屈める作業を長時間続けると、徐々に痛みが走るようになる。腰痛は悪化の一途をたどっていった。
こういう状態の中、徹夜明けで通勤ラッシュの時間帯に通学を余儀なくされることもあったので、体力及び精神的に辛くなってきた。バイトを辞めようかと思ったこともあったが、高校時代に父親を亡くした後も碌にバイトもしなかった私が働き始めたことを母がとても喜んでいたことに加え、やはり金銭的なことも考えると、なかなか辞める決心がつかなかった。
しかし辛い出来事は重なるものだ。
汚された思い出
小学生の時、私はとある塾に通っていた。そこは個人経営だったこともあり、基本的には塾長自ら授業を受け持ち、生徒たちに教えていた。悪ガキ揃いの中、私は授業中も大人しく講義に耳を傾けていたので、割と塾長にかわいがれていたように思う。そんなこともあり、私はその塾と塾長が結構好きだった。
バイトの初日、郵便局に出勤すると、何と!あの時の塾長がいるではないか!
向こうもすぐに私のことに気づく。聞けば、私と同じく今日が初出勤ということであった。
塾は今でも開いていると言う。感動の再会だった。
だが、時が経つにつれ、私は塾長の勤務態度に疑問を覚え始めた。日中、塾を開いているからだろうか、勤務中、時々うたた寝をしているのだ。
ちゃんと区分箱に郵便物を入れていると思いきや、塾長は立ったまま手だけ微妙に動かしながら器用に寝ている。特に、明け方近くになると時々ではなく、かなりの頻度で寝ていた。さらに1時からの長時間休憩では大いびきをかいて、自宅モードで爆睡しているのだ。
いつからか彼の微妙に手を動かす仕事ぶりは、“シャドーボクシング”ならぬ“シャドーポスティング”と呼ばれるようになった。それも日を追うごとに熟練の妙技にまで磨きをかけ、はた目には真面目に働くラジオ1号よりもスムーズな動きだった。
そこにさらなる失望が私を襲う。それは塾長のしょうもないプライドだった。
田舎町の小さな塾とはいえ曲がりなりにも塾長という一国一城の主だ。そのプライドがいたるところで見え隠れするのだった。
もちろん、年長者なのは十分理解している。だが郵便局のアルバイト員としては私と同じ新米なのである。それが、“シャドーポスティング”に加え、偉そうに上から目線で物申してくるのである。
「それは、もっとこうした方がいいわね」
いかにも人生経験を重ねた者としての立場から職場を良くするための忠言を装っているのだが、何のことはない、単に自分が楽をしたいだけであった。しかも、喋り方が今でいう尾木ママのようなオカマ口調だった。全く内容が入ってこない。とどめに、話終わると会心の笑みを浮かべながら、「ウフフ…」と謎の吐息で締めくくるのである。
こうして、あっという間に職場のお荷物と化す塾長であった。
休憩時間、バイト仲間との戯れ
アルバイト生活では苦しいこともあったが、もちろん喜びもあった。それは、良きバイト仲間に恵まれたことである。学業との両立がしんどく何度も辞めようと思いながらも、結局続けられたのはバイト仲間に支えられたことが一番の理由である。
腰痛が悪化し重い物を持つことはもちろん、腰を曲げることすら出来なかった時には、学生の同僚たちが何かとフォローしてくれた。その時の私は労働力としてだけ見れば、足手まといだったに違いない。にもかかわらず、温かい眼差しで助けてくれた恩は、終生忘れることはない。
特に楽しかった思い出として残っているのは、休憩時間に学生のバイト仲間と室内ゲームをしていたことである。バイトに入った頃の初期メンバーの間では将棋が流行っており、棋力はさておき大山十五世名人の時代から現代に至るまで将棋界に造詣が深い私は、一目置かれる存在になった。
また、初期メンバーが就職で去った後に入ってきた後輩たちとは、UNOやトランプに興じていた。この連中も初期メンバーに負けず劣らずユニークな面々で、若気の至りもあってアホなやり取りに終始していた。
トランプ等をする際に少しばかり賭けていたこともあり、それぞれが「麻雀放浪記」のお気に入りのメンバーに扮して、ある者は“坊や哲”、またある者は“ドサ健”になりきって気炎をあげていた。完全に今でいう中二病であった。
心温かいケンジ君
バイト先の塾長を筆頭とするやる気のない中高年男性と違って、学生たちは総じて真面目に働いていた。とりわけ後から入ってきたケンジ君という後輩は別格だった。この後輩は幼い頃に父親を亡くし苦労して育った経験もあってか、年下ながら実に立派な好青年だった。
通常業務のほかに、深夜2時半過ぎに大型トラックで搬送されてくる郵便物を降ろし、台車に積み替え、作業場まで運ぶ仕事がある。有志の何人かで行くのだが、ケースに目一杯詰め込まれた郵便は、かなりの重量がある。そのため、おじさんたちは皆なかなか行きたがらず、決まってわれわれ学生仲間だけで行っていた。
ところが、ケンジ君は入った初日から率先して手伝ってくれたのである。そんなことは、新人なのだから当たり前だと思うかもしれない。しかし、まだ職場に溶け込んでいない中、独特の雰囲気の中にあって自ら名乗りを挙げるのは、勇気とそして余程のやる気がなければ出来ない。バイト初日のルーキーが、その仕事を一緒にやっている光景は初めて見た。
また、当時のシフトはかなりずさんで、あってないようなものだった。当番の正職員とそこそこ顔馴染みになると、当日いきなり仕事に来ることも可能だった。
その日はシフトの予定を見る限り人数も少なく、質的にも絶望的なメンバーだった。私と学生仲間の1人は顔を見合わせて目で「ご愁傷様」と言い合った。
そんな状況の中、仕事が始まって1時間ぐらいすると、なんとそこにケンジ君が現れたのだ。今日は、たしか飲み会があったと言っていた気がするのだが……。
事情を聞いてみると、今日の出勤メンバーがあまりに壊滅的だったので早めに切り上げて手伝いに来てくれたとのことである。しかも、少しアルコールが入っているので、タイムカードは押していないというではないか。要するにタダ働きなのである。
ここ最近、私は腰痛に悩まされ厳しい状況が続いていた。おまけに、今日は郵便物が多い曜日でもあった。彼はそれ以上多くを語らなかったが、自分たちを心配し、急遽予定変更で出勤したことは容易に想像がついた。
ケンジ君はどんな仕事でも率先してやるだけでなく、仲間が困っていると必ず手を差し伸べる、本当に心温かい人物だった。私は先輩という立場にありながら何度も彼に助けられた。私だけでなく、ほとんど全ての同僚がそうだった。
学生時代の友人や社会に出てからも尊敬すべき人物はたくさんいたが、その中でも彼は間違いなく3本指に入るだろう。
今振り返ると
働く者と働かない者がはっきりと分かれている郵便局でのアルバイト経験は後々とても役立った。私は大学卒業後、地方公務員として入職した。当時の郵便局は民営化前だったので公務員であった。たとえ業種は違っても郵便局員も同じ公務員ということもあり、体質は基本的に変わらない。
地方公務員でも地位によって給与に差がつくことはあるが、基本的には旧態依然とした年功序列制度が色濃く残っており、よほど偉くならない限りそこまで差はつかない。つまり、民間企業と違い、頑張っても給与に反映されないのである。だから、どうしても寄生虫のような職員が発生する。
よく世間で叩かれるようにろくに働かない中高年や、法の目をかい潜り療養休暇を繰り返す税金泥棒などが本当に存在したのだ。そうかと思えば、民間の企業戦士にも決して引けを取らない過酷な労働条件の中、身を粉にして公共の福祉の実現に取り組む志の高い職員もいた。まさしく、郵便局と同じ構図だった。
私が郵便局のアルバイトで得られた、最大の学びとは何だったのだろう。それは、“あくまでも、きちんとやるかどうかの秤は自分の心に内在する”というポリシーである。
玉石混交のバイトたちの中にありながら、ひたむきに労働に勤しむ人々。彼らには、いくらバイトとはいえ給与が発生している以上、手を抜いて怠けることは恥ずかしいという良心があった。特にケンジ君の仕事に対する姿勢、仲間を大事にする精神に触れるたび、深い感銘を受けた。
ケンジ君こそ、“あくまでも、きちんとやるかどうかの秤は自分の心に内在する”という哲学を体現した、私の仕事の師ともいうべき存在なのである。
公務員になってしばらくすると、私は係長に昇進し、専門的知識を要する部署に異動となった。ほとんど経験のない業務に、なかばお手上げ状態になってしまう。それに追い打ちをかけるように、直属の上司は全く働かないことで有名な人物であった。業務について尋ねても、前任の係長に丸投げしていたようで全く把握しておらず、何の役にも立たなかった。不慣れな環境に加え、仕事も満足にこなせなかった私は、係長としての役目を果たせず、部下の中には露骨に不満を抱く者もいた。
しかし、知識不足に苦しみながらも自分なりに担当業務と格闘し、部下からの要望や係としての課題に向き合っていくうちに、徐々に係員達の態度はおだやかになっていった。後から聞いたのだが、私の直属の上司が使えないうえに唯一頼りにしていた前係長まで異動し、畑違いの新係長が赴任してきたためシワ寄せが自分達に来るのではと思い、不安を覚えていたらしいのだ。
私が仕事を覚えようと努力し、少しずつ業務に貢献していくことによって徐々に彼らに認めてもらえたのである。きちんとやるかどうかの秤は自分自身にあるということを郵便局時代に学べたからこそ、そんな上司がいてもモチベーションを失わずに済んだのだ。
私は志半ばで公務員生活にピリオドを打ったが、公務員という環境の中で多くの得難い経験を積むことができた。
今はただ、その原点ともいうべき郵便局で働いた日々に感謝するのみである。